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歴史の散歩道 4-4

最終更新日 2018年7月13日

第四章 鎌倉下の道

四 野庭の関城(せきしろ)跡

風土記マップ
拡大図(画像:90KB)

かつて、野庭団地(地図6)の一帯に和田義盛が築城した関城という城砦があったと伝えられているが、これを立証する確かな資料は何も存在していない。だが、「日本城郭体系」には横浜野庭郵便局の南にある中央公園高台付近を本丸跡(地図7)としている。この辺りの古い地名にも谷堀(やとぼり)・深田・的場(まとば)・宮久保(みやのくぼ)などがあり、また、野庭の地名を古くは「野場」と書き表した所からも、鎌倉武士の練兵場であったとも考えられている。

関城は西から北に流れる馬洗川(地図8)を自然の水濠とし、南は深田(湿地帯 地図9)、東の宮久保は掘切と水濠(現在の遊水地の辺りは沢地であって、馬洗川支流の水源の一つであったと思われる 地図10)に囲まれた要害の地であった。この城の造りは台地構えと称し、谷津構えの笹下城とともに、区内にある代表的な城砦である。また伝説によれば、建保元年(1213年)の和田の乱の時、関城に立てこもった人々は和田義盛が材木座で討ち死にした後も、北条群を迎え撃ち、この乱の原因をつくった泉親衡(ちかひら)と共に、20日間も籠城(ろうじょう)の末落城したという。上野庭には、和田一族の末裔という和田姓の家が数件ある。

また、野庭の地を含む山内庄(やまのうちしょう)の支配に関係したと思われる土肥実平の一族や「山内の人々20人」が和田方として討死した記録が「吾妻鏡」にあることなどが、このような伝承を生んだ背景があると思われる。更に一説には和田の乱は単なる勢力争いではなく、後鳥羽上皇の幕府内部崩壊を狙う陰謀計画であったという。当時、山内庄は八条院領として院政の経済的基盤の一端を担っていたので、この説に従えば、関城伝説の持つ意味は重く、そして深い。



「こうなん道ばたの風土記」(改訂版)は「港南の歴史研究会」の編集により、平成11年10月に発行されたものです。

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