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あらまし

最終更新日 2019年3月14日

港南区の歴史

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のどかな農村生活の中で

昔の地図

江戸時代、現在の港南区の中心には武蔵と相模の国境が南北に走り、両側にいくつもの村がありました。その後、明治期の町村制の施行により、永野村、日下村、大岡村の3村が誕生。これが、現在の港南区のルーツといえます。当時、この地は農村地域であると同時に、近代国家の礎(いしずえ)の役割を担っていたのです。



横浜開港とそれに伴う様々な変化

稲作

1859年(安政6年)横浜開港。横浜港が日本の貿易の窓口として活躍するとともに、村の生活も大きく変化しました。農産物を出荷し、現金を得るという商品経済が、この地に及び始めたのです。米麦雑穀中心の作付から市街地が求める野菜や養蚕の生産に変化し、多角化していきました。日清・日露戦争後は貿易促進や産業の振興のもとで、ジャガイモやパイスケザル(竹で編んだ浅い鉢形のざるで、天びん棒に下げ、土砂や石炭等の運搬に用いられた)などの品種改良、商品改良も活発に行われるようになりました。
(写真:明治36年ごろの上大岡駅前。あたり一面は田んぼだけののどかな農村風景が広がっていた)



花の栽培で賑わう港南の村

花の栽培

横浜港を中心に新市街地が拡大するとともに、新しい産業も誕生しました。それは西洋風の花の栽培です。港南の温暖な気候は、バラ、シャクヤク、チューリップ、スイセン、キンセンカなどの花栽培に適しており、当時、大岡、笹下、日野あたりは一面花畑だったそうです。温室栽培も行われて出荷先は東京にまで及び、1933年(昭和8年)には、上大岡に港南花市場も誕生しました。しかし、こうした花産業も戦争とともに衰退していくのです。
(写真:昭和初期、当時の笹下地域は花の栽培が盛ん。その先駆けとなった『薫花園』の花畑)



関東大震災、第2次世界大戦そして現代

捺染布干し風景

1923年(大正12年)に発生した関東大震災により、港南地域の建物の大部分は瓦解しました。しかしその復興期には、新しい事業への試みも活発に行われました。上大岡には製陶業が開始され、大岡川流域では捺染(なっせん)業が続々と誕生。さらに観光農園としてブドウ園を開園する事業家も現れました。その後、1930年(昭和5年)には湘南電気鉄道(現:京浜急行)が上大岡に開通。1936年(昭和11年)には横浜刑務所が完成。
第2次世界大戦下ではすべてが戦時体制に塗り替えられ、そして敗戦。しかし、戦後の疲弊の中から、新しい生活が再び始まりました。高度成長、人口急増という大変化が港南の姿を大きく変貌させていったのです。
(写真:昔の捺染布干し風景。港南区で作られたハンカチーフが「横浜スカーフ」として横浜港から輸出された)



年表

港南区年表は歴史年表のページをご覧ください。

  • 大正以前
  • 昭和元年から43年まで
  • 港南区発足(昭和44年)からの昭和
  • 平成元年から現在

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