和泉の製糸場
最終更新日 2019年3月4日
泉区の中心として開発が進む和泉地区
18.和泉の製糸場
清水製糸場跡
和泉町内には、和泉川に沿って横山製糸場、大矢製糸場、山村製糸場、清水製糸場、和泉館鈴木製糸場などの製糸場があった。農商務省の調査書や「工場通覧」によると、この他に「カクジュウ尾沢組製糸場」、「和泉館清水合名会社」、「和泉館清水合名会社員」などがみえ和泉町には、数十社の製糸場があったようである。
下の表は、明治三十一年(一八九八)から大正十年にかけての和泉町内の製糸場の年代別の操業の様子をみたものである。
この表によると、短期間で廃業した製糸場もあるが、全休的にみると、第一次世界大戦後の大正九年頃をピークに、その後は生糸相場の暴落や関東大震災の被害などにより、製糸場も廃業へと追い込まれていったようである。
和泉町の製糸場だけでなく、泉区内の製糸場で働いた女工員は、神奈川県下の各地から募集されていたようで、年季明け後この地に永住する人もいたようである。
『瀬谷区の歴史』によると、当時の女工員の年季は三年で、給金は記録がないのでわからないが、一年目、二年目、三年目と昇給した。
給金の渡し方は、年季証書と引き替えに一円、残金の一円は年末帰省のとき、さらに残りの一円は年季明け後に年一割の利息を加えて渡していたようである。
『戸塚区史』によると、女工員は寄宿生活が普通であった。通常は夜七~八時頃まで働いたが、忙しいときは、朝三時ころ始めることもあり、また夜十一時頃まで働くこともあったようである。
泉区内で製造された生糸は、長後街道を経て横浜港へ運ばれたのではなく、生糸商人であった若尾幾造が経営する商店へ納めるために、藤沢へと運んだようである。
和泉の製糸場 年代別操業状況
調査年 | 会社名 | 設立 | 釜数 | 女工員数 | 生糸生産高 | 社長及び代理者 |
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明治三一年 | 和泉館清水合名会社 和泉館清水合名会社員 | M29 M29 | 一一六 四八 | 一一六名 三〇名 | 四五〇〇斤 五〇七斤 | ・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・ |
明治三五年 | 和泉館鈴木製糸場 清水製糸場 | M31 M29 | 一一〇 四八 | 八二名 一〇〇名 | 三三七五斤 一一八〇斤 | ・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・ |
明治四〇年 | 和泉館鈴木製糸場 | M31 | 六八 | 七七名 | 六四三七斤 | 鈴木吉之丞 |
明治四四年 | 大矢製糸場 カクジュウ尾沢組 カクジュウ尾沢組 | M40 M40 M30 | ・・・・・・ ・・・・・・ ・・・・・・ | 三一名 一〇〇名 八一名 | ・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・ | 大矢 鶴 藤原長重(代理) 鈴木一雄 |
大正三年 | 盛進社清水製糸場 横山製糸場 | M44 M44 | 五〇 三〇 | 五四名 三一名 | 四七八一斤 一八〇〇斤 | 清水一三 横山与惣左衛門 |
大正六年 | 清水製糸場 横山製糸場 清水製糸場 | M44 M44 T5 | 一二〇 三〇 ・・・・・・ | 一三四名 三三名 五三名 | 九三六〇斤 二四六〇斤 ・・・・・・・・・ | 清水一三 横山与惣左衛門 清水久吉 |
大正一〇年 | 盛進社清水製糸場 横山製糸場 山村製糸場 | M44 M44 T6 | ・・・・・・ 三〇 ・・・・・・ | 七九名 三〇名 五三名 | 一八〇〇斤 四七一斤 ・・・・・・・・・ | 清水一三 横山与惣左衛門 山村太市 |
農商務省「全国製糸工場調査表・工場通覧」より作成
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平成8年11月3日発行
泉区制十周年記念出版
いずみ いまむかし
-泉区小史- より
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