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安西嘉吉と黄蜀葵

最終更新日 2019年3月4日

泉区の中心として開発が進む和泉地区

11.安西嘉吉(かきち)と黄蜀葵(とろろあおい)

中和泉の安西家の画像
中和泉の安西家

「神奈川県農会報百七十号」に大正十二年(一九二三)の農業関係の視察先が記載されている。泉区内の視察先は、次の十か所である。

・産業組合 中田信用組合 (中和田村中田)
・林樹苗 奥津喬治郎 (中和田村中田)
・蚕 業 岡津東部養蚕組合 (中川村岡津)
・生 糸 持田製糸場 (中和田村上飯田)
宮崎製糸場 (中和田村上飯田)
・真 綿 小山元治 (中和田村中田)
・スライスハム 清水桃太郎 (中和田村和泉)
田丸金次郎 (中和田村下飯田)
・黄蜀葵 美濃口平司 (中和田村下飯田)
安西嘉吉 (中和田村和泉)


荷札の画像
荷札

黄蜀葵は葵科の植物で、根は製紙のとき繊維を密着させるために必要な原料である。

当時、泉区内では、美濃口平司と安西嘉吉が黄蜀葵を扱っていたようである。

安西嘉吉は、藤沢市大庭の川口家に生まれ、安西家の養子になり、明治三十年(一八九七)頃安西嘉吉商店を設立し、境川流域の鎌倉郡、高座郡や埼玉県の寄居や小川町の農家に黄蜀葵の種を与えて栽培させた。その根を九月頃に集め、荷馬車で戸塚駅まで運び、通運会社を通して静岡の製紙工場へ出荷する仕事をしていた。

柏尾川流域の水田地帯に比べて、現金収入の少なかった境川流域の畑作地帯の農家では、現金収入の道として、養蚕がさかんであったが、養蚕より労力が少なく、現金収入になる黄蜀葵の栽培も盛んに行われた。

大正五年の「中和田村勢要覧」によると、当時の中和田村(中田、和泉・上飯田・下飯田)の黄蜀葵の作付面積、収穫高などは次のとおりである。

・作付面積 一五町七反(約一五五、七〇三平米)
・収穫高 一〇七一貫(約四〇一六kg)
・一反当の価格 六円五〇銭

嘉吉の孫にあたる安西孝夫氏によると、黄蜀葵の栽培は、鎌倉郡や高座郡など近在の村々よりも埼玉県の寄居や小川町が主であったということである。

嘉吉と共に、安西嘉吉商店の経営にあたったのが長男の健三であったが、戦時中の物価統制により黄蜀葵の栽培や取扱が難しくなり、安西嘉吉商店も廃業をよぎなくされた。

嘉吉は、昭和十九年三月十日、八十三歳で死去、長福寺の墓地に葬られた。

とろろあおい
黄蜀葵 (とろろあおい)

百合根の栽培

泉区内では黄蜀葵の他に昭和十五年頃まで輸出用の百合根の栽培が行われていた。品種は鹿子百合が多かったようで、花の咲く時期は畑一面が桃色に染まったが球根を育てるために摘(てき)花していた。

昭和十一年発行の神奈川県統計書によると、当時鎌倉郡内(戸塚、栄、泉、瀬谷)の百合の作付け面積が六町七反(約六六、三九七平米)で、生産額は一四、九九八円と高く、神奈川県内では津久井郡、横浜市に次いで第三位になっている。

鎌倉郡中和田村勢要覧(大正五年)によると、鎌倉郡に属していた中田、和泉・上飯田、下飯田の四地区では、作付面積六反歩(五五、九五〇平米)、収穫高二百十円で、一反(約九九二平米)当たりの収入は三十五円であった。

当時、中和田村で栽培されていた農産物の中では百合の栽培面積は少ないが、一反当たりの収入は良く、農家の良い収入源となったと思われる。岡津地区については資料がないためにわからないが、地域の人々の話によると、百合の栽培が盛んに行われたようである。
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平成8年11月3日発行
泉区制十周年記念出版
いずみ いまむかし
-泉区小史- より



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