辨良上人と小島家
最終更新日 2019年3月4日
早くから住宅地として開けた中田地区
8.辨良上人(べんりょうしょうにん)と小島家
小島家文書
中田寺(ちゅうでんじ)を創建した本誉良廓(りょうかく)上人の後を継いだのが中田村の小島家出身の就誉(しゅうよ)辨良上人であった。
左の写真のように、辨良上人が書かれた文書(中田村領主石巻康敬添書)によると、彼は小島家三代目の九左衛門(くざえもん)の子息であった。
初代十左衛門(じゅうざえもん)は、小田原北条氏が関東地方を支配していた頃の、小田原城五代城主北条氏直の家臣であった。
天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原城攻めにより小田原北条が滅亡すると、小島十左衛門は流浪して中田に来住して耕人となった。
同じく小田原城の評定衆を勤めた石巻康敬(いしまきやすたか)も、小田原北条の滅亡により中田に蟄居(ちっきょ)させられたが、徳川家康が関東入国の折りに、五大夫橋(ブリジストン横浜工場先)に呼び出され、後に中田村を領地とせよという采地印状(さいちいんじょう)を渡されて中田村の領主になった。
石巻康敬は、先に中田村に来住していた小島十左衛門に、昔の同僚のよしみをもって、若干の田畑を隠居料として与えた。これが中田の小島氏(現当主小島重留氏)の先祖である。
石巻家は徳川将軍家の信頼が厚かった。その関係もあったのか、小島家出身の中田寺住職、辨良上人のことが将軍の耳に入り、大火にあって廃寺同様になっている、埼玉県川越の連馨寺(れんけいじ)を復興させよとお声がけがあって、連馨寺の住職に就任した。
辨良上人は将軍の意を受けて立派に本堂等を再建し、寺域の拡張整備を行って山門を隆昌させ、第三十一世中興の祖と仰がれた。
その後茨城県飯沼の弘経寺(ぐきょうじ)に招かれて住職に就任したが、元文四年(一七三九)に入寂した。
辨良上人が住職を勤めた川越の連馨寺も、茨城の弘経寺も共に壇林と称した本山格で、幕府から朱印状を賜っており、僧侶を養成する名刹(めいさつ)でもある。
平成8年11月3日発行
泉区制十周年記念出版
いずみ いまむかし
-泉区小史- より
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