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太平洋戦争と区内の様子

最終更新日 2019年3月4日

早くから住宅地として開けた中田地区

11.太平洋戦争と区内の様子

桑原部隊本営跡と実習場跡

桑原部隊が使った国産ブルドーザーの画像
桑原部隊が使った国産ブルドーザー

中田小学校校地とその周辺は、昔から「丸の内」と呼ばれ、戦前までは葛野集落の先まで広く平らな農耕地が続いていた。戦争が逼迫(ひっぱく)した昭和十九年にこの平らな農耕地約一〇haの土地を使用して、旧日本海軍の工作部隊であった桑原部隊(部隊長、桑原芳樹海軍中佐)が開隊し、その本営と兵舎が現在の中田小学校校地、および周辺に設置された。

敗退を続けていた戦争末期に、戦う武器もあまり持たない工作部隊をなぜこの地に配置したのかわからないが、なぜか年齢層の高い、また近隣出身の兵隊(召集兵)が多かったという。


日本海軍が作った覆たい壕の画像
日本海軍が作った覆たい壕

終戦後、その桑原部隊の本営や兵舎は、国立病院、中和田中学校開校時の校舎、中和田小学校東部分校等になった。その後、接収地の払い下げ陳情の結果、約三分の一を、新設する中田小学校校地に残して、他は元の地主や神奈川中央交通中田車庫用地に払い下げられた。

また工作部隊であったから実習場が必要であり、現在のしらゆり公園一帯、中田町側十五ha、岡津町側一〇haの山林や畑地が提供された。現在のしらゆり公園一帯からしらゆり公園プール、白百合愛児園あたりに部隊の管理棟や実習施設があった。

ワイヤーで排土板を上げ下げできるブルトーザーもあって、隊員たちが巧みに動かしていた。いま白百合台住宅が建つ傾斜地には、雑木の林を伐採しないで、上空から見えないようにカモフラージユした蒲鉾(かまぼこ)型の物資格納庫が幾つもあった。また燃料の欠乏で、バスもみな木炭車だった戦争末期、錨(いかり)に桜のマークを付け、濃紺のネイビーカラーに塗られた軍用トラックが、部隊本営と実習場の間を、当時珍しかったガソリンの匂いを嗅がせながら日に何度か走っていた。

終戦後、この実習場の敷地はたいへん広大であったので、元の地主の熱心な払い下げ陳情の結果、現在のしらゆり公園用地や白百合愛児園などの施設用地四・四haを除き、すべて地元に払い下げられた。中田町側はほば全域が農耕地となり、岡津町側は一時期、灌漑用水池になったりしたが、時代の波と共に両町とも住宅地に変わって新しい町となった。

旧海軍の深谷通信隊

通称「通信隊」といわれる、中田町と和泉町に跨(また)がる現在の米海軍「深谷通信隊」は、もとは日本海軍航空基地の通信施設で、上瀬谷の通信隊とともに、広大な厚木の飛行場も含めて、旧海軍の重要な軍事施設であった。今は泉区になったが、以前は部隊本部が戸塚区深谷町内にあったので、深谷通信隊といっている。

この施設は、旧海軍が本土防衛の主要基地として、昭和十三年頃から建設を計画したもので、大和市、綾瀬市に跨がる広大な地域と、中田、和泉、深谷並びに上瀬谷の用地が収用され、昭和十六年に相模野海軍航空隊、厚木海軍航空隊、海軍高座工廠(こうしょう)、海軍技術学校等が設置された。ほば同時に深谷、上瀬谷の通信施設も完成し、東洋最大の海軍航空基地となったのである。

深谷は発信、上瀬谷は受信で、双方とも太平洋戦争の重要な情報を発受した現代史の史跡である。

防空監視哨(かんししょう)

大戦末期、本土に侵攻してくる敵機を監視する防空監視哨が、和泉町三七〇三番地の、中和田小学校の県道を隔てた北側に設置された。木製で高さが二十mほどの望楼(ぼうろう)で、哨長は青年学校で教練指導をしていた在郷軍人の教官が勤め、副哨長以下青年学校生徒七名が五交替で敵の飛行機を監視していた。監視哨と神奈川県庁は直通電話で結ばれていたという。この地域で個人電話が数軒しか加入していない頃であるから、重要な施設であったのだろう。

岡津小学校が焼夷弾(しょういだん)で焼失

桑原部隊が使った国産ブルドーザー
焼失前の岡津小学校

日本本土が米軍の焼夷弾攻撃で焼土と化しつつあった昭和二十年四月二十四日午前一時三十分頃、B29から投下された焼夷弾で、岡津小学校の全校舎と近隣の人家数軒が焼失した。攻撃を受けた原因は、弾薬を作っていた新橋の日本火工ヘの誤爆だったという説もあるが、日本火工の照明弾部材である落下傘材料が、岡津小学校の作法室に収納されていたことや、同小学校に召集兵の陸軍部隊が一分隊ほど駐屯しており、校庭での軍事訓練や学校の田畑を使って、軍服着用で食糧増産などをしていたことから、岡津小学校が狙われて攻撃されたのだろうという人もいる。当時の米軍は空襲前に偵察機を飛ばして状況調査をしていたから、これら地上の様子がすっかり察知されていたのかも知れない。

岡津小学校を焼いた焼夷弾は、中田北部の上空ですでに傘開し、導火布に着火した焼夷弾はめらめらと燃えながら斜めに落ちていくのが見えたとのことである。

なおこの火災で校舎前に建立されていた二官金次郎の銅像は、焼けて形を崩してしまったので見るに忍びないと、三嶋神社の境内に埋めたという。


和泉にあった外国婦人抑留所

桑原部隊が使った国産ブルドーザー
軍事訓練を受ける旧制中学生

和泉町の大山道に近い高台に、大正末期に中和田村が建てた法定伝染病患者を隔離する病棟があった。横浜市に合併してからは業務を横浜の感染症病施設に移したが、建物は残されて市が管理していた。

太平洋戦争が始まるとすぐの昭和十八年に、十数人のイギリス、オーストラリアの婦人がこの病棟に収容された。小宮まゆみ著『神奈川県内の外国人抑留所』によると、この和泉の隔離病棟は昭和十八年六月二十五日設置の「神奈川第二抑留所」となり、県内四か所に設置されたうちの一つであった。抑留婦人の多くはキリスト教の修道女たちで、中年から年配の人が多かったようである。彼女らは一部屋十畳程の洋室(病室)を七室使い、庭を散歩したり花や野菜を作ったりすることはできたという。軍人捕虜ではなかったので、近所の人たちに悪い感情はなく、のんびりと暮らしていたようである。

その頃の話であるが、和泉町に住んでいた義侠心の強いある人は、自分で蒸かしたじやがいもなどを、管理人を無視してたびたび届けたという。またこの抑留所で彼女らの面倒を見ていたある女性は、終戦後たいへん世話になったと感謝され表彰された。

終戦後間もない昭和二十年八月二十日前後のある日、米軍の飛行機が低空で飛来し、抑留婦人向けの物資を入れたドラム缶や箱に落下傘を付けて、中和田小学校の校庭目がけて投下している。幾つかは落下傘が開かずに、校舎の西昇降口の屋根を突き抜いた。幸い夏休み中だったので人的被害はなかったが、大音響とともに校舎の屋根は破壊され、救援物資のドラム缶や箱が大破して四散した。当時の警防団員に招集が掛かり、天井裏にまで散乱した物資を集めて抑留所の外国婦人へ届けたが、ガムやチョコレートなど、食料の欠乏した時代であったので、今まで嗅いだこともないよい香りの食物を集めながら、彼女らがうらやましく、喉から手が出そうだったと、当時の団員たちが話していた。
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冊子いずみいまむかしの写真

平成8年11月3日発行
泉区制十周年記念出版
いずみ いまむかし
-泉区小史- より




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