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鎌倉道沿いの板碑

最終更新日 2019年2月28日

田園風景を今も残す下飯田地区

7.鎌倉道沿いの板碑(いたび)

東泉寺蔵の板碑の画像
東泉寺蔵の板碑

板状の薄く平らな石に、文字が刻まれた石碑は板碑(いたび)と呼ばれ、国内各地に残っている。板碑が造立されたのは、鎌倉時代から江戸時代初期にかけての、いわゆる中世という時期に限られているという。泉区内でも発見されているが、多くが鎌倉道沿いに分布している。下飯田町においても近年、地中に埋もれていたものが多数発見され、その多くは東泉寺に移されて供養されている。また、上飯田町の本興寺、無量寺、小曲寺跡地、和泉町の長福寺、密蔵院、中田の山神社などの各地には修復されたものが祀られている。なお、個人の敷地、墓地などに祀られているものもある。

板碑の目的は、死者の追善供養として現在の塔婆や墓石のように建立されたものが多く、まれには現世利益的な民間信仰の対象として建てられたものもあるという。形態から判断すると、頭部が鋭く三角形に切り込まれて厚みがあるものは、鎌倉期のものとされ、頭部三角形の角度がゆるやかで、薄く平らな板状のものは、主に室町時代のものといわれている。区内に残っている板碑の多くは後者のものである。

石の材質は、秩父石と呼ばれる緑泥片岩が多く、群馬県、埼玉県方面から運ばれたものと推測できる。板碑が多く分布している「鎌倉道」は、足利、新田の本領地と鎌倉を結ぶ道である。発見された板碑の中に延文三年(一三五八)十一月のものがあるが、この年の八月には京都で足利尊氏が病死し、十月には新田義興(にったよしおき)が矢口の渡しで足利直義の手のものによって謀殺されるという事件が起きている。新田義貞の鎌倉攻めから二十三年目に当たるこの年まで、合計六回の鎌倉道周辺での攻防戦があったと『太平記』は伝えている。

板碑が、これらの戦乱とどのような関係にあったかは不明であるが、明らかに一般の住民の墳墓、供養塔とは異質な趣があり、南北朝・室町期の世相を無言のうちに語りかけてくれている。
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平成8年11月3日発行
泉区制十周年記念出版
いずみ いまむかし
-泉区小史- より



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