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領主筧助兵衛為春と下飯田村

最終更新日 2019年2月21日

田園風景を今も残す下飯田地区

6.領主筧助兵衛為春(かけいすけひょうえためはる)と下飯田村

筧為春の墓の画像
筧為春の墓

筧氏系図

徳川家康の家臣、筧越前守助兵衛為春(かけいえちぜんのかみすけひょうえためはる)は、天正十八年(一六九〇)に、小田原攻めの戦功による恩賞として、百九十石の下飯田村を知行地として支配するようになり、以後、明治に至るまでおよそ二八○年間、この地を筧為春の子孫が領していった。この下飯田地区は、もともと鎌倉時代に飯田氏の所領であった頃は、上飯田地区も含めて飯田郷という一地域であったが、室町時代の永録年間(一五五八~一五六九)に、下飯田村を川上藤兵衛が治めた時から上・下に二分された。

筧氏の祖先は伊勢国の出身であったが、その後、三河国に移り、徳川(松平)家に代々仕えてきた。為春は、下飯田村に着任するとともに、この地を本領として活躍した。大阪夏の陣でも戦功を立て、千葉県、山梨県などの所領を増やし、慶安二年(一六四九)、八十四才で亡くなる時には、一千八十石の領主となっていた。法名は為春院殿釈道随居士であるが、後に活元道随大居士と追号されている。『寛政重修諸家譜』にも下飯田村に葬られたと記されている通り、墓は富士塚山と呼ばれていた一隅にあったが、昭和三十七年の団地造成に伴い、東泉寺に移された。現在の墓石は、嘉永四年(一八五一)の二百回忌の折りに建てられたものである。なお、為春の跡を継いだ元勝は浅草の長敬寺に葬られ、代々の墓所となっている。

明和元年(一七六五)に、筧氏の娘と上飯田村の奥村氏との婚姻が成立し、下飯田村の一部で「大村」と呼ばれていた十五石の土地を化粧料として奥村氏に贈った。この石高から、この土地の宇名を「十五石(じゅんこく)」と呼ぶようになった。やがて、明治になって神奈川県の行政管轄になったが、この土地は現在も上飯田町に属しており、歴史的経緯の跡を残している。
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平成8年11月3日発行
泉区制十周年記念出版
いずみ いまむかし
-泉区小史- より




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