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飯田五郎家義と館跡

最終更新日 2019年2月19日

田園風景を今も残す下飯田地区

2.飯田五郎家義(いえよし)と館跡(やかたあと)

飯田五郎供養塔の画像
飯田五郎供養塔

現在の富士塚団地のある場所は、かつて飯田氏の館があったところといわれている。昭和三十七年の団地造成前までは、小高い山の脇に、壕の跡と思われる細長い窪地が残っていた。

平安末期に、この地を治めていた飯田五郎家義は、治承(じしょう)四年(一一八○)、源頼朝が兵を挙げたとき、平氏側大庭景親(おおばかげちか)らの兵とともに、石橋山の合戦に参じたが、多くの相模武士団の若武者と同様に、源氏の再興を望んでいたと思われる家義は、意を決し、頼朝軍の味方をした。また、合戦の際に頼朝が紛失した数珠(じゅず)を家義が拾って届けたところ、頼朝は大いに喜んだ。家義は随行を申し出たが、敗走に際して目立つといけないという土肥実平の進言から、涙ながらに別れたということが『吾妻鏡』などの史料に記録されている。

続く富士川の合戦では、源氏側として参戦し、長男太郎が敵に討たれたにもかかわらず、勇猛果敢なはたらきをして味方の勝利に貢献した。のちの論功行賞では、「前には石橋山で我が命を救い、今また戦功をなすは本朝無双の勇士なり」と賞賛され、飯田郷(上、下飯田と諸説によっては和泉の一部も含む)の地頭職に任ぜられた。


平成7年頃の境川から見た富士塚の画像
平成7年頃の境川から見た富士塚

『源平盛衰記』では飯田三郎家能となっており、「東泉寺薬師堂縁起」には三郎家能に関する伝説も記述されているが、これらは家義と同人であるといわれている。家義の系図には諸説があり、大庭景親の配下であったとする説や、綾瀬の早川城に拠点を置いた渋谷氏の出身であるという説、また、家義の後継として渋谷庄司重国の五男重親(しげちか)(近)が飯田五郎を名乗ったという説など様々である。また、飯田五郎が甲斐国、駿河国の住人と記録されている文書もあり、それらの土地を領していたとの説もある。なお、『吾妻鏡』などの史料には、飯田氏の子孫の三郎能信や四郎浄宗が地頭職として関わった出来事がこと細かく記述されており、鎌倉時代のこの地と幕府のつながりの様子が伝えられている。

家義の墳墓は定かではないが、富士塚団地北西部にそれらしき跡があったともいわれており、付近の共同墓地内に明治三十二年、「古賢大菩薩」の石塔が建てられた。また、東泉寺過去帳には「薬王院殿家興順能大居士」の戒名が記載され、供養を営んだ形跡が見られる。その後、昭和三十七年、団地造成に伴い、五輪塔などを東泉寺山門脇に移転し、家義の供養塔を建立した。また、館跡と思われる元の場所を西に下った鎌倉道沿いに「富士塚城址碑」を建て、現在の城址公園とした。このすぐ横を、市営地下鉄線と相模鉄道線が通ることとなり、この地もまた一歩、変容の時期を迎えている。
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平成8年11月3日発行
泉区制十周年記念出版
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-泉区小史- より



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