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長谷川伸と「瞼の母」

最終更新日 2019年3月7日

第4章 文化と産業

4.長谷川伸と「瞼(まぶた)の母」

長谷川伸のお礼状の画像
長谷川伸のお礼状

拝啓
このたびは、参上、いろいろご芳志に
あずかり、まことに有難く存じます。
亡き母の若き日に親しめる土をみて
感慨深きものあります。
お礼まで、お家中によろしく

当時、東京都港区芝二本榎西町一番地に居住していた長谷川伸が「瞼の母」で知られる生母「コウ」の生家を義兄弟、三谷隆信、川西田鶴子と共に訪ねたときの、横山庸雄(信夫父)へのお礼状である。

長谷川伸の生母「コウ」は、文久二年(一八六二)二月八日、斧右衛門の三女として、鎌倉郡和泉村(泉区和泉町)に生まれた。「コウ」は、横浜の日の出町三丁目、長谷川新造の長男寅之助に嫁いだ。

寅之助の叔父長谷川秀造があるとき、材木を見に鎌倉郡和泉村に行った折り、豪農の娘(横山コウ)をみそめて寅之助の嫁にした。寅之助とコウの間に生まれたのが、日出太郎と伸二郎(長谷川伸)である。

しかし、秀造が事業に失敗し、材木商の新造が亡くなると、寅之助か跡を継いだが、家の内外で争いごとが絶えず、色街の女に狂い、妻と妾同居という生活に「コウ」は自分から身を引き、明治二十年(一八八七)十二月五日、二子を残して和泉村の実家へ帰った。

日本丸前の記念碑の画像
日本丸前の記念碑

明治二十一年三月十一日、「コウ」は京都府弓木村の生糸問屋三谷宗兵衛と再婚した。宗兵衛との間には民子(女学院長)、隆正(神学者)、隆信(外交官を経て待従長)妙子(文学博士山谷省吾に嫁ぐ)、田鶴子(東京府知事・日赤社長川西実三に嫁ぐ)がいる。

長谷川家に残された日出太郎は生糸問屋に小僧に出され、祖母も義母も住み込みで働きに出て一家は離散した。長谷川伸も吉田学枚を二年で中退し、横浜第ニドツグの工事詰負人のもと下回りの仕事につき、その後各種の仕事を転々とした。

明治三十六年には軍隊に入営したが、明治四十年に満期除隊になり、新聞社に入社して小説を書くようになり新聞や雑誌に作品を発表した。

昭和八年二月十二日、長谷川伸は、三谷家に嫁いでいた瞼の母「コウ」と四十七年ぶりに再会した。「コウ」が七十一歳のときであった。当時の新聞は小説以上に奇遇であると大々的に報道した。

長谷川伸の作品には、「夜もすがら検校」「天正殺人鬼」「作手伝五左衛門」「瞼の母」「一木刀土俵入」「雪の渡り鳥」など股旅ものがある。

なお、長谷川伸は、新鷹(しんよう)会、二十六日会、二十一日会、冬夏会、八日会などの勉強会を開き、後進の指導育成にあたり、山手樹一郎、山岡荘八、村上元三、平岩弓枝など多くの作家を育てた。

長谷川伸は、昭和三十八年六月十一日に死去した。墓は、東京都目黒区の高福院にある。

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平成8年11月3日発行
泉区制十周年記念出版
いずみ いまむかし
-泉区小史- より



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