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市川花十郎と農村 歌舞伎

最終更新日 2019年3月7日

第4章 文化と産業

3.市川花十郎と農村歌舞伎

市川花十郎の画像
市川花十郎

「市川花十郎の名は、蔵の中に眠る義太夫本の行李や舞台衣装の箱の中、そして自分の胸のうちに眠るだけとミヨは思っていた。それが夫や息子にまで花十郎の名を出して語りかける人がいた。花十郎は死んでいなかった。ミヨは嬉しかった」

これは、昭和六十年九月二十三日付、神奈川新聞『神奈川人間紀行』に掲載された小林伸男氏の『花十郎の思い出』の中の一節である。

市川花十郎は、県内を代表する農村歌舞伎「市川花十郎一座」の座長で、ミヨは子役などを務めた花十郎の養女石川ミヨ氏である。

花十郎の生家は、俣野町の県会議員を務めた石川重郎家の出である。

花十郎は、本名を石川芳太郎といい、義太夫を教えていた竹本友太夫(石川友吉) の長男として、明治二十三年(一八九〇)九月に生まれ、中和田尋常高等小学校を終えた後、十六歳の頃から歌舞伎に身を入れはじめた。


義太夫本の画像
義太夫本

ある日のこと、花十郎が友太夫に連れられて行った地方の舞台で、兜を持って花道からツツツと出てきた役者が、ふとしたはずみで手に差し上げた兜を客席に落としてしまった。そのとき友太夫が、ひときわ声を大きく張りあげてうたった。〈落ちた兜を手に収りあげて〉役者は友太夫の機転に救われ、つつがなく役を演じることができた。この様子を見ていた花十郎は「あっ、この呼吸だ」、これをきっかけに、花十郎は芝居に魅せられていった。

花十郎の一座には、ほかに京桝屋三桝源五郎、市川柿之助、沢村国太郎などの大看板役者がおり、衣装も地芝居と異なり、どんな外題(げだい)にでも応じられるように、役者と衣装を余分に揃えていた。当時、地芝居の一夜買い切りが三十円のとき、花十郎の歌舞伎は百円から百三十円だったといわれている。

戸塚に金井屋という親分がいた。花十郎はこの賭場に出入りするようになり、金を巻き上げられ、家屋敷までも潰しかねない状況に追い込まれていった時があった。

しかし花十郎は、いかにいかさまとはいえ、大した芝居ではないかと相手を褒めたという。

花十郎一座は、毎年声がかかった逗子の桜山、葉山の一色、森戸、横須賀の長井をはじめ県内を興行した。上飯田町の中野清治氏によると、この近在では中田町の御霊神社、上飯田町の三柱神社、飯田神社、藤沢市の豊川神社、天満宮、白山神社、七ツ木神社などでも行われ、出しものは「狐忠信」「曽我の五郎、十郎の仇討ち」などであったようである。芝居は買い切りで、三時に宿から楽屋にはいり、五時に開演して六幕演じて終わるのは明け方の三時以降であったようである。

「この座の人を、このような田舎まわりをさせておくのはもったいない。本来ならば歌舞伎に迎えたいところだけれども、歌舞伎は血筋と伝統を重んじている世界ゆえに、それもなりません。まことに残念です」、歌舞伎界の大御所中村福助をしてこのように語らしめるほど、花十郎の芝居はすばらしいものであったようである。


神楽面の画像
神楽面

しかし、「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」で熊谷直実を演じた舞台で倒れた。花十郎が四十二歳のときであった。また、折り悪く持ち金を全部預けていた友人の経営する銀行が倒産した。偽装倒産だったようであるが、いかんともしがたく、一座を長後の石井周造にまかせて歌舞伎から身を引いた。昭和三十五年四月、妻のナカの容体が急変し、亡くなると、花十郎も寝たきりとなり、テレビが一般家庭に普及し始める昭和三十七年二月二十二日、息を引き取った。七十二歳であった。

神奈川新聞の記事を読み、農村歌舞伎の保存と遺産の掘り起こしを行い、受け継いでいこうとしたのが「いずみ郷土を知る会」の人々であった。平成五年一月三日付、神奈川新聞は「農村歌舞伎の往時を再現」という見出しで大きく取り上げた。また、石川ミヨ氏は、花十郎が使っていた衣装や道具をはじめ、義太夫語りをしていた友吉の義太夫本等を横浜市教育委員会に寄贈した。

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-泉区小史- より



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