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泉区の地形と地名

最終更新日 2018年10月16日

第1章 泉区のあゆみ

泉区の地形と地名

大橋 俊雄 (泉区歴史の会会長・文学博士)

泉区は行政的には、横浜市に属し、地勢的には多摩丘陵の南端に位置し、境川をへだてた西側には相模原台地が北から南へ伸びている。

この地域が神奈川県に属するようになったのは明治元年(1868)9月のことで、それ以前は相模国鎌倉郡と呼ばれ、鎌倉郡には八十四か村があった。鎌倉郡は東は武蔵国に接し、西は境川で高座郡と境(さかい)していた。阿久和、岡津両村の東隣は峰を境に武蔵国と相模国の境となっている。明治22年4月、市町村制が布かれ、阿久和・岡津・上矢部・名瀬・秋葉は中川村、中田・和泉・上飯田・下飯田は中和田村をつくり、村名は村の中央を柏尾川の支流阿久和川が貫流しているので中川村、中和田は中田・和泉・飯田の旧村名の一つずつとって村名とし、中川村岡津、中和田村和泉などと呼ばれるようになった。

こうしてできた村も昭和14年4月横浜市の第六次地域拡張にともなって横浜市に編入し、戸塚・瀬谷・川上・豊田・本郷・大正の町村名とともに戸塚区となったが、昭和61年11月中和田地区と中川地区のうち岡津・新橋両町は「横浜市戸塚区の再編成に関する条例」の施行にともない分区し、泉区となった。因みに中川村阿久和のうち北部は横浜市編入のおり阿久和町(現・瀬谷区)、南部(下阿久和)は新橋町となった。新橋町の町名は所在地の橋名に由来している。

いわば泉区は中和田・中川両地区の複合地域で、今は開発にともない地形も大幅に変わっているが、中和田地区が平坦部であるのに対し、中川地区は須郷谷(すごうやと)、慶林谷(けいりんやと)、領家谷(りょうけやと)という地名が示しているように、谷戸と呼ばれる起伏のはげしい谷部が多い。

境川や和泉川、阿久和川に沿った、かつての東や南に向いた台地上からは縄文文化時代の、低地には弥生文化時代の住居跡や土器・石器が数多く発掘または発見され、無土器時代の石器も和泉町の中和田南小学校付近や同町主水分(もんとぶん)の八幡神社裏から出土したと報告されているので、この地に人々が生活するようになったのは、一万年以上も前からのことであった。

下飯田町に字名をのこす本郷は、奈良時代上飯田、下飯田を中心に形成されていた高座郡渭堤郷の本郷と想定されている(『日本地理志料』)。当時、新橋・岡津両町あたりは大島郷に属していたらしい。また、平安時代の中田(葛野)は村岡郷に共通して鎮座している御霊神社の存在していることから考えると、梶原氏の所領であったろう。梶原氏は鎌倉権五郎景正を祖とし、景正の孫景長が梶原を性とした。

古文書にはっきりと地名がでてくるのは鎌倉時代以降のことで、岡津の地名は文永7年(1270)12月、飯田は永仁6年(1298)の鎌倉八幡宮や永福寺に所蔵されている文書に見えている。両地域に共通していることは水田が多いということで、水田の確保が領主にとって不可欠の条件であった。古文書によれば、岡津に太宰少弐為佐、甲斐三郎左衛門尉為成、飯田に飯田四郎浄宗、飯田藤五郎家頼らの御家人が地頭として住し、泉小次郎は飯田氏の一族ではないかという。その頃岡津には八町八反(約9ヘクタール)の水田があった。水田は一朝一夕に造成されるものではないから、平安時代の末には既に存在していたと見てよかろう。

鎌倉は三方を山に囲まれ、一方は海という攻めるには難く守りやすいという自然を利用した要害の地であった。鎌倉に入るには七つの切通しがあり、鎌倉から地方に通じている道には東の道(下の道)、中の道、西の道(上の道)があった。そのうちに市の道(上の道)が飯田を通っていた。今、鎌倉道やたつ道とよばれているのがそれである。日蓮は甲斐国黒駒を出立したのち相模国に入り、平塚・四ノ宮・一ノ宮を経て飯田に出、飯田から先は西の道(上の道)を通っているので(『日蓮上人註画讃』)、飯田あたりを分岐点とした東西につらなる往還もあったらしい。

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平成8年11月3日発行
泉区制十周年記念出版

いずみ いまむかし
-泉区小史- より


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