調査季報179号 特集:男女共同参画によって実現する女性活躍社会 横浜市政策局政策課 平成29年2月発行 ≪2≫横浜市におけるこれまでの女性の社会進出と男女共同参画の取組 ③地域社会における女性活躍を考える~横浜郊外における主婦による地域活動の軌跡から 編集部 編集協力 岩船弘美 フォーラム(男女共同参画センター横浜)館長 吉田 洋子 吉田洋子まちづくり計画室  横浜はM字の底の深い街。すなわち20歳代後半から40歳代の女性の労働力率が低く「専業主婦」が多く住む都市である。それゆえ、これまでの横浜の地域活動や市民参加の街づくりの歴史を振り返るとその多くが、主婦による無償の活動によって担われてきた経緯がある。特に1960年代以降に市街地が形成された郊外部は、その当時、移り住んできた住宅団地第一世代(団塊の世代及びプレ団塊)(注1)の主婦と共に成長・成熟してきた街であると言っても過言ではない。 本稿は、横浜郊外の街づくりに対して住宅団地第一世代の主婦が担ってきた活動の変遷について、時期を3期(1960年代中頃~70年代、1980年代~90年代中頃、1990年代後半~00年代)に分けて、それぞれの時代の社会潮流や市民生活の課題の変化と重ね併せて、明らかにすることを趣旨としている。  それにあたって、過去に発行した市民生活白書や調査季報に掲載された記事を参照に、主に戸塚区ドリームハイツ地区に焦点を当て、そこから全市の主婦による地域活動の変遷を俯瞰することとする。そして、これらの考察通じて、これからの地域社会における女性活躍の課題や方向性について考えたい。 1 郊外の誕生と生活環境改善への取組~1960年代中頃~70年代  「私は一昨年十月に結婚しまして、この戸塚区に住むことになりました。東京から横浜へ移る時は、横浜市ということで、港のあるヨコハマに住めるのだと、今考えると大変ロマンチックに考えておりました。ところがこの戸塚区に住んでみますと、港どころか大変な田舎にきたものだとがっかりしています。この汲沢方面は道らしい道が一つもございません。雨が二、三日降れば長靴で半分くらいは土の中に入ってしまうのです。それを三十分もかかってバス停留所まで行かなければなりません。苦情は、道路だけではありません。ガケ崩れの危険、ごみの回収、水道のことなど、毎日の生活がいやになるくらいあります。あこがれの港にも、昨年からたった一回行っただけです。」(戸塚区・主婦二十七歳)  これは、横浜市の最初の市民生活白書「市民生活白書39」の冒頭に、掲載された「市長への手紙」の一部である。この白書が刊行された1964年は、新幹線が開通し、東京オリンピックが開かれ、日本社会全体が体が活気に満ち、高度経済成長期と言われていた時期だ。30数年前、一人の匿名の市民から、時の市長に向けて書かれたこの手紙は、当時の横浜の課題をありのままに映し出している。1960年代から70年代にかけて、横浜市の人口は100万人から250万人へと激増する。その三分の二が社会増であり、大部分がこの手紙の主婦のように東京から、住む場所を求めて横浜にやって来た転入者であった。ちなみに、この白書が刊行された1964年の横浜市の年間社会増は、約6万人で、現在の逗子市の人口とほぼ等しい。  大量の転入者は、港北区(現在は分区されて港北区、緑区、青葉区、都筑区)や戸塚区(現在は分区されて戸塚区、栄区、泉区、瀬谷区)といった、東京への通勤圏である郊外区に集中した。  当時、横浜の郊外は、広大な田園地帯であった。1960年の時点で、市域の二分の一が農地山林だったほどである。1964年の横浜市がいかにこの手紙のいう意味での「田舎」であったか、都市基盤に関する環境指標を見てみよう。例えば、道路舗装率が37・0%、下水道普及率が9・0%(水洗化普及率になると僅か1・2%に過ぎない)、上水道の普及率81・0%と、東京を始め、大阪、名古屋など他の五大都市と比較して、どれも最低に近い水準であった。また、当時、郊外部でのごみの収集回数は不定期で、月一~二回程度。市内の交通ネットワークにしても、市街地には市電が走っていたが、市街地と郊外部、鉄道主要駅と郊外部の住宅地を結ぶ公共交通網は、極めて乏しい状態であった。  小・中学校などの教育施設についても、事情は同じで、ベビーブームと児童数の増加による慢性的な教室不足によって、市内の小学校全学級の三分の一が50人以上のすし詰め教室の状態であり、宅地造成のスピードに学校建設が追いつかず、午前と午後で児童を入れ替える「二部授業」を行わざるを得ない学校や、プレハブ校舎でしのぐ学校すらあった。  「市民生活白書39」では、この手紙のほかにも東京から移転してきた市民の怒りの訴えを幾つか紹介しているが、延々と続くどろんこ道となかなかやって来ない糞尿のくみ取り、時には、井戸水に頼らざるを得ない生活用水。街のいたるところで、ごみが腐り、ハエがたかったまま放置されている状態など、手紙を読む限り近代的な都市サービスには、かなり距離があったことは明らかであった。 「夫は東京へ通うサラリーマン。妻は家庭(地域)で家事や育児に専念する」というライフスタイルが当時の郊外住民の一般的な姿であったとすれば、こうした横浜郊外の不便な生活を強いられていたのは、もっぱら「専業主婦」と呼ばれる女性たちだった。 彼女たちの中には、行政に生活の窮状を訴えるだけでなく、自ら、地域の環境改善に立ち上がる者たちもあった。その一つの象徴的な事例として、戸塚区ドリームハイツの取組をみてみよう。 戸塚区俣野町と同深谷町にまたがるドリームハイツ。現在、約7000名の住民が暮らす高層住宅団地だが、入居が始まったのは昭和47年(1972年)のことだった。  当時、ハイツ周辺は、境川沿いの緑豊かな田園環境には恵まれてはいたものの、交通不便な地域で、住民は厳しい生活環境に置かれていた。公共施設をはじめ〝ないない尽くし〟で、日常生活に欠かせない医院か商店も保育園もなかった。  「車がないとどこにも移動できず、原宿交差点の交通渋滞の中でストレスを抱えながら通勤した」「子どもが病気になってもすぐ飛び込める病院がなく、共働きをしたくても子どもを安心して預けられる保育園がなかった」と、住民たちは、入居当初、新天地で余儀なくされた厳しい暮らしを振りかえる。 そんな〝陸の孤島〟状況を改善するために、ドリームハイツの住民たちは団地自治会を結成し、バス便の増便や深夜バス便の創設、買い物の不便さを補う共同購入などに取り組んだ。また、乳幼児を持つ母親たちと団地自治会が中心となり、母子で部屋に閉じこもり、孤立しがちな団地の子育て環境を解消しようと保育のための場づくりが進められていった。 このように郊外の住宅団地において、住民が地域の日々の暮らしの課題や要望を話し合い、解決に向けて自らが行動を起こしたり、行政に要請していくための自治組織として、住民によって自治会が結成されるのは、この時期、ドリームハイツに限ったことではなく、同時期に横浜郊外に整備された大規模住宅団地に共通する現象であった。例えば調査季報29号では、旭区左近山団地の例が取り上げられ、団地の生活環境の未整備と道路や学校や保育所、商店街、バスなどの問題-から権利と連帯の意識とが芽生え、住宅公団や横浜市を課題解決の交渉相手とするために自治会が結成され、遂には連合自治会にまで発展する経緯が郊外における新しいコミュニティづくりの動きとして住民自身の手によって書き記されている。 従来までは行政の下請け機関的な側面も強かった町内会とは異なる、郊外で新たに誕生した「要求・要望」型の自治会活動の主な担い手となったのもドリームハイツと同じように専業主婦であった。また当時の横浜市行政も、団地住民と住民集会を共催し、市長自ら出向くなど、これらの活動に積極的にアプローチすることで、彼女たちの声に真摯に耳を傾けようとしている。 ドリームハイツの活動に話を戻せば、昭和49年には3歳児を対象にした幼児教室「たけのこ会」、翌年には4~5歳児を対象とする幼児教室「すぎのこ会」が始まった。その後も、地域住民の活動の中から、学童保育所が生まれ、障害児と遊ぶ「水曜会」、障害児と健常児との共同保育を行う無認可保育園の「苗場保育園」、父親の立場で子育てを考える「おやじの会」などが次々と誕生した。「おやじの会」は「すぎのこ会」に子供を通わせていた団塊世代の父親たちが立ち上げた会である。  ちなみに、1970年代前半、住宅団地第一世代は、20歳代後半から30歳代前半であり、この世代が多く住む横浜の郊外にとって、乳幼児の保育を地域社会全体で、どう支えるかが市民生活の大きな課題であった。ドリームハイツの場合は、それを主婦である女性たちが手作りで始め、男性を巻き込みながら、自治会活動などを通じて地域ぐるみで発展させていったのである。 2 成熟する横浜の郊外と女性による地域街づくり1980年代~90年代中頃  1989年に出版された「横浜市民生活白書」では、市民の暮らしが経済的に豊かになるにつれ、市民生活の重点がモノから心へと移り、市民の価値観やライフスタイルも多様化しつつあるというこの時代に起こった社会変化の様相を以下のように述べている。 「暮らしにもっと満足するためには、これからどんなことに力を注いでいったらいいのか。国の調査では、3割の人が『レジャー・余暇生活』と答え、いわば〝遊び〟がトップになっている。この『レジャー・余暇生活』はここ数年急増しているが、2番目の『住生活』と3番目の『食生活』は少し減る傾向にある。 生活の重点が『衣・食・住』から『余暇』へと移行する。市の調査でも、今後の生活の重点をきいたところ、衣食住の充実よりも精神的な充実を求める人が多かった。衣食住などの『もの』から『心』の充実へという傾向が、ここからも読みとれる。  戦後40年、私たちの生活はかつてない勢いで向上し豊かになった。今や、私たちの身のまわりにはモノがあふれている。海外旅行をはじめ、ほんの数10年前には考えられなかった体験を得る機会も、ごく身近なものになった。  1人当たりの国民所得の上昇、自由時間の増大、高学歴化などによって、人びとの価値観やライフスタイルはますます多様化・個性化し、生活の質が問い直される時代となっている。モノの豊かさよりも心の豊かさを求めて、自分自身の生活を選択し創造していくことが、当たり前のことになってきているのである。」 こうした市民生活が経済的に豊かになっていくのに併せて、この時代は、横浜郊外においても、上下水道や生活道路、地下鉄やバスなどの公共交通、学校施設などが急速に整備され、地域活動のテーマも自治会活動を基盤にした必要な生活インフラを行政に対して要望・要請していくというスタイルから大きく変わりつつあった。そのことを横浜市民生活白書は「知縁」というキーワードを使って以下のように伝えている。 「社会の成熟化は、人びとのつきあい、人間関係に影響を与えずにはおかない。人びとの価値観の多様化や、個人のライフスタイルの尊重という考え方の定着のなかで、地縁や社縁といった自分では選択できない関係よりも、自分自身の価値観によって選べる関係を、より重視する人が増えてきているのである。 選べる関係を重視するということは、つきあい、交際という側面だけでなく、地域における市民の活動についても言える。昭和60年度の国民生活白書でも、社会参加活動が地縁型から自主的参加型へ比重を移してきていることが報告されているし、経済企画庁の別の報告書でも、従来型の地縁的活動は活動全体の2割にすぎず、また活動のエリアが広域化してきていることなどが明らかになっている。  こうしたデータからも分かるとおり、従来の地縁、社縁にかわって比重が高まってきたのが、人びとの自主的活動から生まれる多様なネットワークである。これは、趣味やライフスタイル、価値観など何らかの目的意識を共有しあう人びとが、誰からも強制されないで主体的に選択し、つくり出した関係、『知縁』なのである。」 このような「知縁」に基づくコミュニティのあり方を横浜市では自治会・町内会などの「地域コミュニティ」に対峙させる形で「テーマコミュニティ」と呼んだ。そしてこうした「知縁」に基づくテーマコミュニティをインキュベーションする役割を担ったのが「生涯学習」であった。 1980年代の中頃から国を挙げて「生涯学習」の時代が叫ばれ、横浜市でも地区センターやコミュニティスクールなど市民の「生涯学習」を支援するための施設が整備されると共に、区役所などを通じて生涯学習のセミナーなどが、盛んに開催されるようになる。このような生涯学習施設を利用し、セミナーに参加したのが、専業主婦の女性たちだった。特に住宅団地第一世代の女性たちはこの時期に30歳代後半から40歳代になっており、当時の標準的なライフコースの主婦であれば、子育てから解放されつつあると共に、親の介護も始まらないという比較的に時間に余裕ができ、まさに体力も気力も充実した中で、自分の趣味や生きがいのために時間を使うことができる年代を迎えていた。 こうした主婦たちの生涯学習活動による「知縁」が発展する形で、これまでは行政が主導していた地域のまちづくりに市民が参画するという活動が起こったのもこの時代の特徴である。こうした住民参加のまちづくりは、行政目線では縦割りになりがちな政策分野や領域を生活者の視点で横串を刺すという性格も持っていた。  例えば、戸塚区ドリームハイツ地区においても、昭和60年に、子育て問題だけでなく、自然との触れ合いや環境・ごみ問題、福祉などその時々の生活課題への対応策を話し合い、アンケート調査を行ったり、街の点検活動などを行う仕組みとして「地域のつどい」がスタートしている。この地域の集いの特徴として、ドリームハイツの松本さんは、「この地域の集いの特徴は、強力なリーダーが情報を占有し、組織の意思決定をして、メンバーは、そのリーダーの指示通りに動くという会社組織とは対極にある。情報をみんなで共有し、活動をどうしていくべきか、メンバー一人ひとりが腹に落ち、納得するまでとことん話し合う。そのうえで、活動方針やプログラムを決める」という。このスタイルも地域社会にヒエラルキーを持ち込まない、生産性や効率性よりも関わるメンバー一人ひとりの思いや主体性を大切にする生活者である女性ならではの組織ではないか。  こうした女性が主体となった地域まちづくりの取組が全市に広がっていく契機になったのが1991年から横浜市が始めた「女性の目でみたまちづくり」事業である。この事業は、女性の眼差しを借りて、高齢者や障害者など社会的弱者の視点で街を点検し、仮にハンディを持っていたとしても暮らして行ける街を創ろうということが趣旨として掲げられていた。そのために公募で女性の委員を募り、委員は、実際に街を歩き、ワークショップを行い、相互に意見交換を重ねることで提案書にまとめた。この事業のファシリテートを行った吉田洋子氏によると、女性が街づくりに参加するということだけでなく、街歩きやワークショップと言う参加のスタイルそのものが画期的だったという。「70年代までの住民運動のように自らの要望や要請を獲得するための手段として、ビラをまいたり、集会で行政を突き上げたりするのではなく、立地や価値観、意見の異なる住民どうしが対話によって合意形成に至るというワークショップの手法が開発されたことに、この時代の地域まちづくりのあり方が象徴されている」と吉田洋子さんは言う。  この「女性の目で見た街づくり」で開発された仕組みや手法は、その後、各区に広がっていった。その象徴的な例が、平成3年度に実施された「女性の目で見た瀬谷区のまちづくり」である。この事業は、瀬谷区役所が公募した市内在住のメンバーでスタート。最初はまちづくりについての学習が中心であったものが、最後にはシンポジウムを開催し、まちづくりについての提言をまとめ、活動記録としての白書まで作り上げた。自ら「ごく普通の主婦」で「行政に対しては要望や不満しか言わなかった」と一年前を振り返る住民が、「まちづくりは自分達の手で」と考えるようになった。このメンバーは、翌年度からは生涯教育のグループとして活動したり、区の魅力づくり事業に協力して、瀬谷区の魅力を市民が見つけ出して地図をつくるなどの活動に発展している。 「この『瀬谷の女性の眼で見たまちづくり』で画期的だったのは、メンバーみんなで話し合い、最終的に瀬谷の駅前は『原っぱ』にすべきと提案したこと。駅前開発というとすぐに事業採算性が頭に浮かんでしまう男性には、あり得ない発想だったと思う。でもそういう既成概念に捉われないのが女性の良さ。実際に人口が減り続け、土地が余り始めている時代の今のまちづくりでは、駅前を原っぱにして実際に成功している地方都市がある。そういう点では先見の明があった」と吉田洋子さんは言う。  さらにこの時期、こうした横浜の各地域で興った地域まちづくり団体が参加し、全市的なネットワークを形成する中で、実施されたのが「地域街づくりフォーラム」である。実行委員会の代表3人が女性が専業主婦であることに象徴されるように、運営の主役は横浜の地域で街づくり活動を行う女性たちだった。実行員会の組織運営の原理はドリームハイツと同じように、「みんなが納得するまでとことん話し合う」。例えば「フォーラムのキャッチコピーを決めるのにも終電近くまで20名を超える実行委員が喧々諤々と議論をしたという。  生涯学習から始まった「知縁」のネットワークによる一人一人の参加者の主体性やや思いをお互いに尊重し合うオープンな議論と参加者が活動自体を楽しむことがを通じて街づくりに参加をするスタイル。この時期、こうした新しいコミュニティ活動のパイオニアになったのも専業主婦を主とする女性たちであった。 3 超高齢・人口減少社会に対応する市民事業の勃興~1990年代後半~00年代  90年代後半からの都心回帰現象によって、横浜南西部郊外エリアは、この時期、急速に少子高齢化が進むと共に、人口動態も停滞・減少傾向を示し始める。 特に、1960~70年代にかけて大規模開発された駅からバス圏にある住宅団地は中高層、低層戸建てに限らず超高齢化と人口減少が深刻化した。いわゆる「まだら模様の人口減少社会」が横浜郊外を襲ったのである。  ドリームハイツもまた「まだら模様の人口減少社会」の象徴的な地域となった。隣接するドリームランドが、平成14年の2月に閉園。また近隣にあった大型スーパーが撤退した(平成13年10月)。これによって、バスの本数も減り、ドリームハイツがもとの「陸の孤島」に戻ってしまうのではないか、利便性の高い都心への住み替えによって、若者を中心とする人口がますます減少してしまうのではないかと住民たちは不安になったという。この時期にドリームハイツ住民の、横浜郊外の住民の主流を占める住宅団地第一世代は50~60歳代に差し掛かっている。そろそろ親の介護や自らの老後について考え始める時期だった。 そんな中で、この時期、地域で進む少子高齢化に立ち向かうため、ドリームハイツの住民たちの興した象徴的な活動の場が「憩いの家夢みん」だった。 「憩いの家夢みん」は、高齢者や障害者などがぶらりと立ち寄れる交流サロンとして、平成7年4月に団地内の4LDKの1室で開設された。この交流サロンは日曜日を除き毎日開かれており、会食、絵画やパソコンの教室、映画上映会などのデイサービスのプログラムが提供されている。また、月曜日は無料で、誰もが自由に集い、利用できる日になっており、お茶をのみながらの談笑の輪が広がるという。また、室内でのレクリエーションや生涯学習のプログラムを提供するに留まらず、周辺の老人保健施設や特別養護老人ホームなどへの見学会を実施したりするなかで、サロンの参加者が主体的に老後の暮らし方を選びとっていけるような機会を創り出している。実際に一人暮らしの高齢者が施設の見学会に参加したことで、自分の老後に具体的なイメージが持て、安心して生活できるようになったという。運営を担うのは、同名のNPO法人「いこいの家夢みん」。地域の20代から80代までの幅広い年齢層の女性を中心にしたボランティアたちがその運営を支えている。  そもそも「夢みん」が誕生した背景にはハイツ住民による「ドリーム地域給食の会」や「ドリームふれあいネットワーク」の活動があった。これら高齢者に対するボランティア活動に関わる人の中から「家の中に閉じこもりがちの高齢者などが集える場所が欲しい」という声が起こってきた。それを受け、団地の一室を賃貸するかたちでスペースが確保され、交流サロン事業が始まったのである。その後、有志が部屋取得のための資金を出し合い、足りない部分は銀行から借りて部屋を買い上げた。活動費も、地域で組織された「夢みんを支える会」(約200名)の会員の年会費一人2400円を主な財源としていた。 もっとも、ここまでであれば、「憩いの家夢みん」の活動は、これまでの地域まちづくりの延長線にあったはずだ。ところが、「夢みん」は2000年6月にNPO法人格を取得し、横浜市の「介護予防型デイサービス事業」を受託した。すなわち「夢みん」は独自の自主事業と委託事業という2本柱で福祉サービスを展開することとなったのである。ここに「夢みん」がこれまでの住民(女性)の無償労働を前提とした地域街づくり活動と一線を画する点がある。 横浜の女性の地域活動の転機は、1997年に制定された「介護保険法」と1998年の「NPO法」である。それまで、地域社会でのひとり暮らしや病弱な高齢者に対する配食サービスや家事援助のサービスは、民生委員やボランティア団体など主に専業主婦を担い手とする地域コミュニティやテーマコミュニティが、会費制や利用料金などで運営していた。ところが、「介護保険法」と「NPO法」が施行されたことで、2000年代に入ると、これらのコミュニティ活動の中にはNPO法人の認証をとり、介護保険の事業所等となることで、ドリームハイツの夢みんのように一挙にサービスを拡充し、本格的な事業を展開するようになった団体が増えた。  一方で既存の自治会町内会、テーマ型コミュニティの間でも、会員やメンバーが自発的に、資金を出し合い、行政の補助金も活用しながら、団地の空き家や商店街の空き店舗を借り上げて改装し、地域の交流拠点として運営する試みが始まったのもこの時期である。一般に「コミュニティカフェ」と呼ばれるこうした地域の交流拠点は、住民がふらっと立ち寄り、食事や喫茶をしながらお互いに会話を楽しむ場としてだけでなく、ひとり暮らしの高齢者に対する見守りや、買い物支援、児童の放課後の居場所づくりなど多様なコミュニティ活動を支える場にもなっている。ちなみにドリームハイツにおいても2005年「ふらっとステーション・ドリーム」が団地内で活動する女性たちの手によって立ち上がっている。 無償の地域活動の担い手から一定程度の有償の労働も組み込んだ市民事業の担い手へ。これが90年代後半以降の横浜における女性の地域活動の新しい潮流となったのがこの時代の特徴であるといえる。 4 さいごに  2017年現在、ドリームハイツに最初に入居した住民たちは60歳代後半から70歳代前半に差し掛かり、いまだに地域活動の最前線にいる。まさにドリームハイツの地域活動を専業主婦として草創期から支え続けてきた松本和子さんが、夫と共に、ドリームハイツに5歳と3歳と1歳の3人の子どもを連れてドリームハイツに入居したのは1973年。3人の子どもたちは、みな家庭を持って独立し、夫とは一昨年、死に別れた。今は、ドリームハイツで独り暮らしだ。ドリームハイツと共に、ほぼ半世紀近くを生きてきた松本さんは、自分たちの活動を次世代にどのように引き継いでいくべきか悩んでいる。 現在、ドリームハイツの高齢化率は40%を超えている。横浜市全体を見ても2019年から人口減少に転じ、2025年には市域の高齢者は約100万に達すると予測されている。そのうち後期高齢者は60万人となる。  また、晩婚化・未婚化や共働き世帯の増加によって、かつてのように主婦が地域における活動の担い手となることが難しい時代が明らかにやってきているのだ。それでも松本さんたちは、あきらめることなく、これまでの活動にあぐらをかくことなく、ドリームハイツに根を張り、日々、新しい地域活動の担い手を獲得するための仕組みづくりにチャレンジし続けている。  これは彼女らに限ったことではない。大都市・横浜のそれぞれの地域で、自治会・町内会、そしてテーマコミュニティでの活動を通じて、住民の暮らしを支え続ける住宅団地第一世代の主婦たちに共通する姿だと思う。 注1 団塊の世代は、1947年(昭和22年)~1949年(昭和24年)生まれの世代。この3年間の年間出生数は260万人を超え、戦後から一貫して日本社会の人口ボリュームゾーンを形成している世代である。核家族という世帯のあり方と「夫は仕事、妻は家事・子育て」という性別役割分担によって郊外の住宅団地に暮らすというライフスタイルを確立した世代でもある。プレ団塊の世代は一般的には1943年(昭和18年)~1946年(昭和21年)までに生まれた世代を指す。横浜の場合は郊外住宅地の形成が首都圏の他の衛星都市に比べて早かったため、プレ団塊の世代も住宅団地第一世代に含まれる。