調査季報179号 特集:男女共同参画によって実現する女性活躍社会 横浜市政策局政策課 平成29年2月発行 ≪2≫横浜市におけるこれまでの女性の社会進出と男女共同参画の取組 ②インタビュー「女性が自由に呼吸できる街・横浜~開港から現代までの女性のまちづくり」 嶋田 昌子 NPO法人横浜シティガイド協会副会長 常光 明子 公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会 関口 昌幸 政策局政策課担当係長 1 女性が自由に呼吸できる街・横浜 【関口】嶋田さんは、横浜開港以来の女性の社会参加の歴史を研究されてきています。横浜は横浜商人がつくった町ですから、市民の力でできた町。その中で、女性もまた、ほかの都市や地域と比べて社会的な主役として活躍してきた歴史があると思うのです。まずそういう民間の女性の開港期からの活躍について、お聞かせ願えますか。 【嶋田】はい。横浜は、例えばペリーが来航したときに「100戸程の村」と言われ、実際に当時の江戸時代に書かれたものでもわかります。それは森鴎外が横浜市歌で、「昔思えばとま屋の煙」と書いている、あの世界。そこから今370万人になるのに150数年しかかかっていない。本当に小さな村から、人口流入と市域の拡大により、急激に大都市になっていく。 そういう中で、横浜の女性たちがどのように生きたのか、ということなんですが、非常に重要なことは、横浜では武士出身者が少ないというデータが明治期の「県統計書」にあります。つまり、江戸であるとか、古くからある城下町では、士農工商という身分制度の中で武士のパーセンテージが非常に高い。でも、横浜は開港場となってゼロから急速にスタートした町です。そこで一番大切だったのは、そこに住む外国人たちの安全を守るということ。そのため幕府は、関内を近代の「出島」にして、周りから隔離する。例えば元町の裏の堀川をつくった。そのために、横浜は周りを全部水に囲まれたエリアになる。そこに渡るには橋が必要。橋のたもとには関門がある。関門によって街の中に入れたくない人間はだれかというと、それは不逞の輩と言われた、脱藩した攘夷を唱える浪人たちです。そこで待て、待てと言って二本の刀を取り上げる。武士は入りづらかったでしょう。一方で横浜は開港場なので、商売の町として発展する。だから士農工商でいえば、商人の比率が高くなる。例えば、城下町・小田原などと比べると、武士の割合の差は歴然としている。横浜は、商都・横浜と言われるように、まさしく貿易の町、商業の町だったという大きな証になると思います。つまり、封建的な道徳や文化を強く持っているのは武士階級。その武士階級が少ないから、幕末の頃から街に自由で開放的な空気が漂っている。だから横浜は幕末のころから「女性が自由に呼吸できる街」だった。 【関口】すごくいいキャッチコピーですね。 【嶋田】きっとそれが横浜だろうと思います。例えば、明治から大正、昭和の初めにかけて関内あたりが横浜商人の最前線ですよね。本町通り、弁天通り、こうした通りに大店があった。こうした大店のご主人が、横浜商人として活躍する。でもしっかり手綱を握っていたのは、女あるじなのね。時代は大正に飛びますけど、典型的な例が、野村さんというホテルニューグランドの支配人。関東大震災の後、昭和の初めにホテルニューグランドが横浜市のサポートでつくられますよね。そのとき最初の支配人として迎えられるのが野村洋三さん。彼は震災より前から古美術商を本町一丁目で経営していました。戦後私もお目にかかりましたけれども、いわゆる〝遊び歩いている旦那〟なわけ。その遊ぶことが、彼の商売に結びつく。例えば原三溪さんと非常に仲がよかったのも茶の湯とか遊びを通じて。もともと横浜の古美術商は外国人相手の商売だけれども、古美術を欲しがる横浜の財界人とネットワークを築き、商売の幅を広げる。そういう渉外、外交はご主人がやる。ところが店の中でしっかり財布を握り、手綱を締めているのは、野村ミチさんという奥様。この方は明治の時代に世界一周旅行をした女性。もともとが、箱根の旅館「紀伊国屋」のお嬢さんだった方。東洋英和を卒業して、野村さんと結婚して横浜商人の妻になる。まず語学ができる。さっき言ったように、お店が古美術商で、外国人を相手にする。そうすると語学ができる彼女がいなければ、店が成り立たないということになる。そういう女あるじでした。しかも、横浜YMCAの活動の中心人物でした。 そしてもう一人、明治から大正、昭和にかけて功績を残した女性が渡辺多満さん。 横浜開港に合わせて石炭、生糸、海産物を商う横浜渡辺家を創業し、後に渡辺銀行の頭取になった渡辺福三郎に嫁ぎ、生涯を通じて慈善事業に力を注ぎました。この二人を典型として、当時の横浜商人の妻たちは社会活動に積極的に参加し「ノブレス・オブリージュ」を体現していた。これには、開港と同時にもたらされた宣教師たちの活動やミッションスクールの女子教育の影響があったと思います。 2 ミッションスクールの女性リーダー教育 【関口】ミッションスクールですか。例えばフェリスとか、共立、横浜雙葉といった。 【嶋田】そうなんです。そうしたミッションスクールで当時の子どもたちが、どういう勉強をしていたかというと、「花子とアン」という朝ドラがありましたよね。「花子とアン」の原作の舞台は、東洋英和なんです。そこでの詳しい授業風景は、テレビの中では出てこないけれども、当時のミッションスクールのカリキュラムは、午前中は英語漬け、午後に国語と漢文。そのカリキュラム中には、お裁縫とかのも入っていたりするのだけれども、なにしろ英語で歴史から何からみんな学ぶ。しかも女性宣教師と生活を共にしたので、当然、英語が非常にうまくなる。  語学だけでなく、西洋的な、まだ民主主義というところまでいかないけれども、少なくとも神の前には男女は平等だみたいなことを、幼少時からしっかり身につけてしまう。彼女たちは商家の妻となっても、臆することなく社会に関わっていく。 【関口】ミッションスクールが中心となって、貿易の町、国際商都・横浜の女性リーダーを育成する仕組みが最初からあったということですね。 【嶋田】それが横浜の強みだった。 3 女性たちが切り拓いた横浜の慈善活動 【嶋田】幕末から明治にかけて、横浜は日本の欧米文化の窓口だったわけだから、早くからキリスト教が入って来て教会活動が盛んになり、その一環として宣教師たちにより困窮した市民に対する慈善活動が始まった。これは全国的にみても早かったと思います。 明治に入るとキリスト教の信者の人たちが、貧しい人たち、子どもたちを救おうと、学校を建てる中で、横浜婦人慈善会というのが、明治年に稲垣寿恵子さん、二宮わかさんを中心に結成された。この婦人慈善会が、明治25年に、貧しい人のための病院を根岸につくった。ちゃんと医者と看護婦を雇用し、壁の赤い色にちなんで根岸の赤病院と呼ばれていました。こういった活動が横浜の女性たちのネットワークの初めとなった。 【関口】明治22年代にですか。これはすごいですね。まだ大正に入っていないわけですものね。大正デモクラシーのはるか前に横浜では市民のボランティア活動が盛んになり、裕福な商人のおかみさんたちがそれを担った。 4 日露戦争時の女性の社会活動 【嶋田】そうですね。当時の慈善活動には、さきほども申した「ノブレス・オブリージュ」というような概念がいきていました。そして、明治後期の女性たちの社会活動にはもう1つの流れがあった。それが、明治年の横浜奨兵義会婦人部。日露戦争に出兵する兵隊さんに慰問袋をつくる活動をさかんにやっています。袋は「勝男武士」という勇ましい名前で。かつおぶしや昆布を炒った保存食みたいなものでしょうね。 【関口】なるほど。「かつおぶし」は縁起物の意味もありますしね。 【嶋田】日露戦争というのは横浜にとってたくさんの男たちが亡った戦争です。各村から何人もなくなっている。シティガイドの活動で横浜のお寺に行くと、一番大きい石碑は日露戦争で亡くなった方の碑なんですよ。碑の建設にはお金を使うんだけれど、残された女性や子どものためのお金はない、どうすればいいんだということで、この奨兵義会婦人部の人たちが、いわゆる救護所を設けて、夫を戦争で亡くした寡婦のために手に職を与えるといった活動を始めています。 【関口】婦人慈善会が病を得た困窮者の命を救うための病院を創り、奨兵義会婦人部が夫が戦死した寡婦や子どもたちのための救護所を運営する。明治、大正の頃を横浜の女性たちの社会活動にはこの二つの実践があったわけですね。 5 職業婦人へのキャリア支援 【嶋田】そして、もう一つ注目したい流れがあります。大正時代になると、ミッションスクールや県立高校に学んで、山下町の外国人商館や日本の商社に、英語ができる、簿記ができる、タイプができるということで勤める女子が増えてくる。それで彼女たちを職業婦人と呼ぶようになるんだけれど、これは実は、蔑称なんですよ。あのうちの子は職業婦人だというと、親は何となくしゅんとなってしまう。まだ、娘を勤めに出すのは、家の恥だという意識が濃密に残っていた時代なんですよね。 さらに、この職業婦人たちで驚きなのは、彼女たちは人前でご飯が食べられない。今の皆さんからすると信じられないでしょうけれども、人前でご飯を食べるというのは、当時は恥ずかしい行為だった。だからお弁当は持ってくるけれども職場を出て、外で食べる。そういうなかで、大正2年に創立した横浜YWCAが職業婦人への支援活動を始めます。商社などで働く女性のための居場所として、まずは食堂をつくる活動を始める。それと同時に、もう一つは彼女たちが職業的にレベルアップを図るために英会話教室とか、タイプ教室とか、キャリア形成のための支援を行うようになる。 【関口】女性活躍支援のはしりですね。横浜はもともと関東大震災に被災するまでは、名実ともにグローバルな貿易都市でしたからね。東京がワシントンのように政治の都ならば、横浜はニューヨークのように経済の都。我が国隋一の商都だった。だからモダンに「働く女性」が生まれたのも早かったし、女性に対するキャリア支援の動きも早い。 6 関東大震災と日本初の婦人会館 【嶋田】ところが、そこに関東大震災が来た。大正12年9月1日。横浜の町は、当時の人口が約45万人、そのうち2万6000人の方、つまり20人に1人が亡くなったり行方不明という未曽有の災害。商都・横浜は壊滅状態になる。 【関口】関東大震災は、横浜という都市が直面した最初の大きな試練ですよね。 【嶋田】ここでもまた、女性たちは立ち上がるんです。先ほどの会や学校の同窓会、職業婦人の団体、助産婦さんの会、女性教師の会等々が数団体が集まり「横浜連合婦人会」というのをつくった。この団体がまずしたことが、被災者への衛生思想の普及。震災をきっかけにコレラとかペストが流行っては困るわけでしょう。それと併せて、被災者に救援物資を配ったり、乳幼児のためのミルクを提供したりということを始めます。 こういう活動を通じて横浜の女性は、目的を同じにする様々な団体が集まり、手を結んでネットワークをつくれば、それが社会を動かす力になるのだということを学んだと思うのね。そういう活動を進めていく中で、今度は女性の社会参加を、より発展させていくための拠点となる「施設」をつくろうという話になる。 【関口】施設を建てるのですか。 【嶋田】行政がお金を出してくれるわけもなく、「それでは、自分たちで集めればいいんじゃない」ということになって、1年後の大正13年9月に小規模な募金活動を開始します。一口10銭で寄付を集めて、昭和2年に自分たちの活動の拠点となる「婦人会館」を紅葉坂に建設してしまう。その活動の中心になったのが、先ほどの話に出た渡辺多満さんや二宮わかさんなのよね。 【関口】市民から浄財を集めて「会館」をつくるという発想はすごいですよね。ある意味で東日本大震災以降のクラウドファンディングの動きなどを先取りをしていますよね。 【嶋田】民間でつくった日本最初の婦人会館よね。民設民営。それでその会館のオープンのときの原富太郎社会事業協会長の祝辞(代読)がまた素晴らしい。「自分は女性の力を侮っていました。でも女性たちはその連帯と情熱を持ってこのような建物を建てる力を持っているということを今日初めて知った。敬服いたします。」ということを率直な言葉で、メッセージとして述べた。 【関口】あの原富太郎が、いわば女性の市民力にシャッポを脱いだということですね。 【嶋田】500人収容のホールもあったというこの連合婦人会館では、多岐にわたる活動が展開されています。講習会や映画会、健康相談、バザー、西洋作法講習会などです。やがて、昭和は戦時色を濃くしていくわけですが、このような時代の動きの影響を受けてか、昭和9年に、当時の会長であった渡辺多満は会館の運営の一切を横浜市教育課に一任します。そして、横浜市はどうしたかというと、英文タイプや英会話を教えていた横浜YWCAに会館を貸すんですよ。昭和9年から17年までにYWCAが事務局を会館に置いたという記録があります。 【関口】さすが横浜市。世界大戦の色濃いご時世でも懐が深い。 【嶋田】そして、この紅葉坂の会館は、戦後、横浜市教育委員会の所管のもと、女性の教育や文化活動の場として再興します。数々の女性団体が大日本婦人会横浜支部にまとめられてしまいます。戦後、昭和27年に紅葉坂の婦人会館は、市教育委員会の所管となり再出発しました。そして昭和53年に南太田に新しい婦人会館(現・男女共同参画センター横浜南)が公立で竣工されるわけですね。 【関口】こうやって、嶋田さんのお話を聞くと、横浜と言う都市は、開港以来、本当に様々な形で、女性が社会に参加し、活躍し、まちづくりやひとづくりの主体になっていますね。今の女性活躍の土壌が、明治、大正、昭和の始めの頃から形成されていたというのはすごいですよね。 【嶋田】戦後、男女同権になってから70年云々と言うけれど、それ以前から女性の社会参加に関して、しっかりとした素地があったからこそ、先人のDNAを受け継いで私たちも地に足のついた活動を進めることができたのかなと思いますね。 7 家庭文庫から、一歩を 【関口】戦後、昭和21年には女性に参政権が認められた。時代の変わり目が来ましたね。 【嶋田】横浜の戦後復興は、他都市より遅れます。昭和20年5月の横浜大空襲で焼け野原となったうえに、終戦後は市街地や焼け残った建物が進駐軍に接収された。戦後、婦人会などの組織・構成にも変化が生じます。昭和23年に、各地の婦人会の連絡組織として、横浜市婦人連絡協議会ができました。会長は深澤淑子さん。横浜市教育委員会が事務局に関わったりもしています。そして、高度成長期に向かって、横浜は人口増加、宅地開発、都市化がすすむわけですけど、このへんから女性の地域活動は世代的にも、テーマ的にも多様化してきます。婦人団体系の動きよりも10歳ほど若い世代では、消費者運動が活発になった。横浜の消費者運動を引っ張ってきた服部孝子さんたちの世代ですね。 【関口】昭和年代、いよいよ嶋田さん世代の活動が始まる。 【嶋田】私の場合、スタートは子どもに本を読ませたいという想いでした。当時、横浜市では身近に図書館が整備されてなかった。ともかく子どもに本を読ませたくても図書館が遠い。結婚して一時東京の新宿に住んでいたら、歩いていける距離に図書館が2つもあるのよね。文京区の図書館が使える、新宿の図書館が使えたので、「何、横浜は」 と思って。でも、そんな中で、「家庭文庫」という活動があるのを知った。 【関口】家庭文庫というのはどういう活動だったのですか。 【嶋田】その名のとおりで、まずは拠点がなくてはならないから、自宅を開放。それから、本を図書館から借りるためには、文庫運営の母体となる人的なつながりが必要だった。母体となるネットワークを創ったら、申請をして図書館に本を借りにいきました。みんなでふろしきを持って、バッグを持って、3~4人で数十冊ずつ持って帰ってくる。 【関口】図書館まで行って、本を持ってきて、それを「家庭文庫」で地域の仲間と共有する。 【嶋田】そう。当時、団地には「はまかぜ号」という車が本を運んで持ってきてくれるのだけれど、町中までは運んでくれないので、自分たちで取に行く。あとはそれぞれ、自分たちが持っている本を提供する。昭和49年に、私は自宅を開放し、本を提供して子どもたちへの絵本の読み聞かせ会を始めました。自宅にたくさん本があったから。いざ、やり始めたら、どうしてこんなに集まるのだろうと思うほど、仲間が集まってきました。 【関口】おもしろいですね。まさに地域に根差した活動。子どもに対する本の読み聞かせ。家庭を開いて、そこを手作りの公共空間にするわけですね。 【嶋田】そう。その「家庭文庫」がいくつか合併して、母の友達の大月好子さんの家で「カンガルー文庫」が始まりました。この活動を通して中区役所とご縁が初めてできた。それがきっかけで、区役所から婦人学級をやりませんか?と声をかけられて、トベラ学級という活動を始めたのです。 8 地域の歴史を掘り起こす「トベラ学級」 【関口】昭和年に始まった「トベラ学級」というのは何をテーマにした学級活動だったんですか? 【嶋田】本牧の生きた歴史をテーマにした学級の企画を区役所に申請したんです。私は、子どもの幼稚園や小学校の50年史の編集に関わった経験から、「本牧」って面白いところだと思っていたんです。ちょうど、米軍の接収が解除になっていく、変動の時代でした。それに、なにより自分の地元の歴史を知らなきゃだめだという想いもあった。区役所の担当者からは、こんなへんな学級はないと言われましたよ。当時は、文学を学ぶ講座などが一般的でしたし、講師も大学の先生など肩書のある方でしたから。でも、私は社会教育ってそれでいいのかなと思っていたの。テーマを決めて、自分たちが主体的に調べることや、講師も地元のお寺の和尚さんや名主のお家のおじいちゃんとか、漁師のおじさん、本牧という町の生き字引のような方を講師にお願いしたんです。 【関口】地域から人材を掘り起こして、住民自らが地域の歴史を発信する。まさに市民参加の地域まちづくりの原点みたいな社会教育活動ですね。 【嶋田】学級のメンバーみんなで地元の聞き歩きをすると、本牧の隠れた歴史が沢山掘り起こされた。例えば、関東大震災の直後のこと。混乱の続くなかで、差別的な流言飛語が飛び交い、苦境に立たされたのが、市電の延伸工事に携わっていた在日朝鮮人の働き手たち。本牧の住民たちは騒ぎが収まるまで、その人たちをかくまって、助けたという話を聴きました。戦後、そのかくまった中心人物が亡くなられたときに、当時の在日朝鮮人の方々が弔問にいらっしゃってご遺族にと感謝の念を述べられたという。 【関口】それは、初めて聞くエピソードですね。 【嶋田】記録に残らない、住民と町の記憶について、地元の長老から沢山聞けたわけです。だから住民自身が、特に若い世代が地元の歴史をしっかり掘り起こして、記録に留めて発信し、自分の足元から世の中を見ていくということが必要なんだなとつくづく思いましたね。  そういう方針で最初は50名ぐらいで始めて、1年目の学級の活動が評判になり、2年目には受講者が100名を超えましたね。その受講者のほぼすべてが女性で「専業主婦」でした。 【関口】地域の学習活動を通じた新しい女性のネットワークづくりの意味を持っていたわけですね。そういえば嶋田さんは、「トベラ学級」と同じぐらいの時期に「いいじゃん会」という子どもの遊びをテーマにした活動もしていましたよね。 9 「横浜いいじゃん会」の三世代遊び場マップ 【嶋田】「横浜いいじゃん会」での子どもの遊び場を考えるって、これは国際児童年のときに、中区役所のほうで小林康夫さんが仕掛けをしてくださった。その後に、黒柳市枝さん、堀端美智子さん、広瀬信子さん、磯野雅子さん、坂本兄弟と私が「三世代遊び場マップ」というのを作ったんです。おじいちゃんたちのときの本牧の子どもの遊び、お父さんの遊び、自分たちの遊びを聞き取りして、地図に落とした3世代マップを創ろうと。実は世田谷でも同じ試みをしていて、それを横浜でもやろうと。 【関口】当時の横浜の市民参加の街づくりは、結構、世田谷区の取組に影響を受けていますよね。ガリバーマップなんかもそうでしたけれど。港町なんで、全国の最先端の取組をこだわりなく取り入れるわけです。ただ、必ず横浜なりにアレンジを加えて、オリジナルなモノにしてしまう。 【嶋田】横浜オリジナルの遊びに「ホンチ」という蜘蛛を使った遊びがありましたよね。この遊びについて世代に聴いてみたところ、当時の子どもたちはもうすでに知らないというです。でも、私たちの世代は、学校で怒られたりしながら、男子も女子もクモを持っていって遊んでいた。でもこの遊びは、どこから始まったんだろうということで、私たちの前の世代に聞いたら、忍足太郎さんという本牧の漁師のおじいちゃんが話してくれて、「あれは本来、大人の手慰み、つまり博打から始まったものだ。本牧に朝一番で漁師たちが納屋に集まる。でも波が荒かったりすると、漁に出れない日がある。そこで博打を始める。その中にホンチ遊びがあった。どちらのクモが勝つかで、金を賭ける。それを子どもが見ていて、おもしろいなあと真似して、遊びとして広まった」と証言を聞いて、やっぱり人に聞いてみるもんだねと思った。そんな話を聞いていると、ホンチ遊びは、千葉から東京湾を渡ってやってきた、なんて、様々なことが分かってくる。それで、横浜の子どもたちのオリジナルな遊びとして、ホンチを復活させようというイベントなんかも当時、開催しました。 【関口】私も小さいころ父親に教わってホンチはやりましたよ。西区平沼あたりだと私の世代でもまだホンチで遊んでるんですよ。昔の漁師さんが伝えた遊びだから、本当に横浜の沿岸部限定ですよね。今でもホンチを見ると死んだ父親や一緒に遊んだ幼馴染の友達を良く思い出す。そういう横浜市民にとっての大切な共通の記憶を「いいじゃん会」が掘り起こして、みんなに伝えたのは、すごいことですよね。 10 「トベラ学級」から「洋館探偵団」へ 【嶋田】トベラ学級も年目を迎えて、新しい切り口を見つけようということで本牧の山の上の洋館に注目した。あの瓦は何なのよと言い出したのが、萬里の福田夏実さんだった。それで私が「あれはフランス瓦」ていうのよ、といったら、「あれってよその町にあるのかしら」というところからみんなでまち歩きして調べ始めたら、もともとフランス瓦は横浜のジェラールという人が焼いたことが発祥でということがわかったりして、「フランス瓦」一つとっても「山手の洋館」の魅力や謎が沢山浮かびあがってくる。それが今の「ヨコハマ洋館探偵団」の始まりです。講座を開始して30年、この活動も今でも続いている。 【関口】そうやってずっと80年代の初めぐらいから続けてきた活動が横浜シティガイド協会に繋がっている。 【嶋田】そうなんですよね。洋館探偵団から派生して1992年に横浜シティガイド協会ができる。観光客を相手にするボランティアガイドは他の都市にもあるけれど、シティガイドは、横浜市民が、同じ市民に横浜の街を案内することで街の面白さや魅力を伝えて行く活動。今年もう案内した方が1万人を超えたけれども、そのうち、半分は横浜市民です。 11 中区女性フォーラムの取組 【関口】そして、その洋館探偵団やシティガイドと同時に中区の女性フォーラムが立ち上がっていますよね。中区女性フォーラムが発足したのは1985年だと聞いていますが、この時期、全市的にも女性協会を立ち上げるために、本市の婦人行政推進室ができ上がって、各区の女性たちに「フォーラムのあるべき姿」について意見を聞いていこうという取組を始めた。その一環として中区に女性フォーラムができたということですか? 【嶋田】皆さん、すごく誤解されるのですけど、フォーラムという建物の愛称とは全く別に中区女性フォーラムというグループが民間発意の団体として立ち上がって、たまたま同じフォーラムという名前をつけたんです。横浜市が行政として男女共同参画社会に取り組もうとした同じ時期に、中区では、市民発意で同じような動きが起こったということなんです。さきほどお話ししたように、中区には婦人団体、消費者団体、社会教育という3つの住民活動の動きがあったんですけど、世代も違うし、情報もそれぞれの団体に縦割りにしか流れてこない。そこでそれぞれの団体が連携して、さらに区内の女性グループにも声をかけた。区内で活動する女性グループが相互に情報を共有し、それぞれの活動を連携させ新たな活動を興していくネットワークの場をつくった。それを区役所にも承認してもらって「中区女性フォーラム」ができた。 【関口】そうこうしているうちに、米軍住宅跡地の再開発を中心とする新本牧のまちづくりが始まり、「中区女性フォーラム」としてもその動きに様々な形で関わるようになる。 【嶋田】そうなんですね。ちょうど新本牧のまちづくりの一環で、地区センター、図書館との複合で知的障害者の通所更生施設を整備しようという計画が持ち上がった ところが、地元で知的障害者の施設に対する反対運動がおこった。新聞にも反対運動を取り上げる記事が出るわけよ。 でも、地区センターや図書館は歓迎だけれども、この施設はダメって、何かおかしくない?」と私は思ったの。そこで中区女性フォーラムとして、この複合施設についての学習会を方面別に何回も開催したうえで、最後に「整備に反対するのは、間違っている」という宣言をしたのね。 【関口】同じ本牧の住民の中に、反対運動を繰り広げている人たちもいる中で、ですよね? 【嶋田】本来的なまちづくりは、ハンディや困難を抱えている人たちにも優しく、共に生きることを前提にしたものでしょう。「ともに生活し、ともに見守るのが本来的な住み心地のいいまちづくりでしょう」という宣言を出したものだから、最初、反対派の人たちは、口もきいてくれなかった。 【関口】本牧と言う地域から逃げることのできない、嶋田さんとしては、勇気ある決断でしたね。 【嶋田】でも、大切なのは、その後。反対派の人たちや再開発で新しく本牧に移ってきた住民に呼びかけて、中区女性フォーラムとして「共に生きる街づくり」をテーマに地域全体の融和を図る取組を進めた。特に新本牧の開発の関係で、ケーブルテレビジョンが敷かれ、あのころはケーブルテレビジョンの会社も予算があったから、そこが枚噛んでくれることになった。自主放送で住民の人たちと共に本牧をテーマにした番組づくりをしようと言う企画が通った。『本牧のあゆみ』を刊行したのが1986年で、それから10年ぐらい経っていたかしら。自分たちでシナリオの勉強会からして、そこに新本牧の新しい住民や何かも呼んで、一緒にやろうと。そんな中で新住民とも本牧の歴史とか文化を共有していく。また番組づくりのような形で共同作業をすると、立場や意見が違っても、お互いに分かり合えるようになる。『ふるさと本牧』は30本作りました。そんな活動を通じて、当初は反対していた新本牧の若いお母さんたちがボランティアに参加するようになっていった。 【関口】多様な立場と意見の方々が同じ場に付き、ワークショップを重ねることで合意形成に至るというのは、この時代に開発された横浜の市民まちづくりの手法ですよね。それが行政主導ではなく、市民主導、女性主導で開発されたところが「女性が自由に呼吸できる街」横浜らしくて良いですよね。 【嶋田】私たちがこの「オリブ工房」をきっかけに学んだ「共に生きるまちづくり」の理念は、今でも自分の活動の根幹になっていて、その後の視覚障害者や車いすの方のための関内のバリアフリーマップづくりや横浜シティガイド協会でのバリアフリー観光の取組などに繋がっている。 【関口】あらゆる人が力を発揮できるまちづくりの発想からきた取組ですね。 【嶋田】この「中区女性フォーラム」から生まれて、社会運動につながった活動が、ファイバーリサイクル。消費生活推進員の服部孝子さんが発案して始めた。これが県域に全部展開されて、黒柳さんは今でも中心メンバーです。  布の収集・リサイクルの活動なんだけど、繊維リサイクルを手掛けるナカノ株式会社との連携でスタートできた。布は資源なのに、当時は分別回収がされていなくて、これはゴミになるだけで、実にもったいない。だったら、布だけ単独回収しましょうと。すごく単純な動機から始めた。 【関口】今のリサイクル、リユース社会を考えたときに、これも先見の明がありましたよね。 【常光】これもそれこそ全国初の試みですよね。今日、このインタビューの会場として使ってくださっている男女共同参画センター横浜南は、今までお話しされていた横浜の女性史とも関わりが深いのですが、現在のファイバーリサイクルネットワークの活動とのご縁としては、隔月で、ファイバーリサイクルネットワークの回収ポイントを担っています。この地域は高齢化してますけど、それだけに、お母さんやおばあさんの思い出の着物を持ってきてくださいます。和服はリサイクルフェアを共催したり。それから新たな連携として、当センターで社会参加・自立支援をしているガールズ(若年無業女性)たちのボランティアを受け入れてくださっていて、和服の整理や値付けをして、交通費もくださっています。 【嶋田】交通費だけで申しわけないです。 【常光】でも彼女たちにしたら、多世代の方と交流できる。会への一歩を踏み出せない子の場合、概して大人は親しか知らない。それこそ今は核家族化が定着しておじいちゃん、おばあちゃんがおうちの中にいるご家庭は少ないでしょう。なので、おばあちゃんぐらいの世代の女性の方たちがこんなにも一生懸命何かをやっているとか、布にさわる感触とか。和服を着たことも畳んだこともない子もいますから、ファイバーリサイクルの活動に参加することは、発見や感動があるという感想をもらっています。 【嶋田】でもそういうふうにつなげてくださるところがあるから、また、活動が広がっていくんですね。 12 地域活動への男性参加を通じてみる男女共同参画社会のあり方 【関口】最後に、こうした横浜の歴史ある女たちの地域での社会活動にこれからは、男も参加することが求めれてくると思うんですね。そこで、嶋田さんなりの男女共同参画社会に対する思いや取組のようなものをお話しいただけませんか。 【嶋田】私はシティガイドを始めたときに、シティガイドは男女半々にしようと思ったの。そうすると家庭だけで過ごしてきた女性たちと、全くの会社人間の男たちが出会うと、やっぱり考え方の違いでトラブルになる。とても不思議なのは、このごろそれがないので、時代が変わったのかなと思うんです。 入会した人は必ず地図づくりというワークショップをやるわけ。そうすると、大概、男女がけんかする。男性は怒鳴るのよね。女性は、その場で泣けばまだ済む。夜になって、うちへ泣いて電話をかけてくる。この修羅場をどうするのだろうと思ったんだけれども、そのうちに、こういうものなんだと。泣いたからってどうなるものでもない。怒鳴ったからってどうなるものでもない。だんだんと収まってくる。男性が多くても男文化になっちゃうし。女性が入るといいのは、平場に強い。やっぱり平らな関係が強いんですよ。井戸端会議的な。それは、私はボランティアにとっては大切だと実は思っています。こういう関係、さらにピラミッド関係の組織の中で生きてきた男性というのは、どうしても上に立ってくるといばって、ガイドがお客様に対して、何とかせいって言っちゃうの。これは絶対にだめ。よく童謡で、「スズメの学校」の先生は、むちを振り振り。こうなってはいけませんと言うのよ。それに対して「メダカの学校」は、だれが生徒か先生か。これのほうがボランティア社会のあるべき姿。それのほうがボランティアに出たときに、お客様に対して自分が一歩も二歩も下がることができるっていうふうによく説明するわけ。 【関口】シティガイドをやるまでは、嶋田さんの活動って、中区女性フォーラムにしても、女性が中心の社会教育であったのが、シティガイドでまさに男女半々になって、どう共同していくか。まさに男女共同参画のあり方みたいなのが実践で出てきたのですよね。 【嶋田】きっと最初は、男性が入ってくるときに、やっぱり違和感があった。でもその違和感をそのまま置いておいてもいけないし、一緒にする、そしてある種の修羅場があって、だんだんとお互いに本当にわかっていかないと、うまくいかないなって。 【関口】地域の中での男女共同参画社会をこれから考えていく上ですごく大事なエピソードですね。 【常光】すごく印象的なのは、2007年問題の頃、男性の地域デビュー講座みたいなプログラムがあっちこっちで開催されていた。そしたら嶋田さんが、「ここではそういうことをやりなさんなよ」とおっしゃったのです。 【嶋田】そんな余計なことを言いましたか。 【常光】嶋田さんは、もちろん男性に期待していなかったわけではなくて、今までやってきた女性たちの活動をすごく大事にされていたからだと思うんですね。だから女性たちが、それこそ子育てにしろ、介護にしろ、自分たちの暮らしの中から見出した課題をネットワークをつくって連帯して、一生懸命解決する中で、自分たち自身のスキルを上げて活動を広げてきている。そこにいきなり2007年問題で、今までずっと企業の中でやってきた男性が3日間ぐらいのデビュー講座を経て、入ってきたら果たしてうまくいくんだろうかと。今まで女性たちがゆるやかに作ってきた合意形成の在り方が、企業経営や縦割り論理などに照らして、否定されたりしたら、男女のあつれきが生じるだけだから、本当の意味で実のある男女共同参画になるようなことを地域と一緒に考えましょうとおっしゃったのです。今までのお互いの価値観とかいいところを認め合いながら、新しい価値観を一緒につくっていくために、もう一回学びの機会を提供するなど、工夫のしどころだと、嶋田さんと話し合いましたよね。 【嶋田】活動と学習というのは車の両輪だと思うんです。 【関口】そうですね。今日のお話を聞くと本当によくわかりますね。 【嶋田】それは自分が社会教育から、当時で社会教育よね。その後、生涯学習になりましたけど、そこからスタートしたので、その実感ね。でもおもしろかったわよ。76歳にもなって、いろいろと、自分が思いついて友達にしゃべる、周りにしゃべる。そうすると、輪ができて、それに賛同してくれる人が必ずいろいろなところへできて、ずっとそれでいく。例えばシティガイドももう私の後、会長は代わっていく。ヨコハマ洋館探偵団にしても、私はいつの間にか団長という形になって、ちゃんと社長が代々かわって、若い人がやってくれるしね。輪っかができると、その中で必ず回り出すのよね。 【関口】循環して、継承されていくのですよね。 【嶋田】だから本当に自分1人で何もかもやろうなんて思ったら、やっていけないじゃない。そういう点では、これまでの活動を通じて、本当にいろいろな人と出会えてよかったと思っています。 【関口】今日のお話ではっきりわかったのは、過去にも学んでいるではないですか。過去の歴史に学びながら、自分なりに今を生きながら、それで未来を見据えているわけですから、それは強いですよね。 【嶋田】横浜は、町が生まれてから158年という若い都市ですけど、関東大震災と戦争という大きな2つの災禍も被って、現在がある。そのなかで、女性たちの活動というのは歴史の表舞台には登場しない分、こうやって、女性たちの歩みを掘り起し、その活力に学んでいくことが大切なんだと思っています。シティガイドの活動でも、そこで生きた人、とくに名を残していないような女性たちの志と活動を、町の記憶として伝えていきたいですね。