調査研究レポート 横浜の都市デザイン・マレーシアへの技術移転の記録 執筆 桂 有生 都市整備局都市デザイン室  私たちは、後述する関係者の協力を得て、『セベランプライ市の歴史・自然を活かしたまちづくりプロジェクト─「横浜の都市デザイン」新興国へのノウハウ移転─』連携事業を2015年12月から2018年 12月まで、JICAの「草の根技術協力事業」として行った。本稿ではその成果を異文化交流の記録と合わせて報告する。 1.本プロジェクトの概要  本プロジェクトは、横浜の都市デザインの考え方や技術をマレーシア・セベランプライ市に応用可能な形で移転するもので、ミッションはアーバンデザインプランの策定、付属設備等の制作支援と職員の専門的研修であった。  横浜の都市デザインは、1960年代からの都市づくり構想(6大事業)に端を発する「魅力と個性ある」 横浜らしい都市をつくる活動である。車や経済が優先される都市が主流の当時、「人が中心のまちづくり」を提唱、歩行者を優先し、歴史を大切にしたまちづくりを進めるなど、日本のみならずアジア諸国からの評価も高い。今に続くそのノウハウは行政だけでなく、協働している民間のコンサルや大学といった官民学それぞれの専門家にも蓄積されている。  そこでプロジェクトを始めるにあたっては、都市デザインのノウハウを持つ横浜市大と横浜の民間コンサルにも加わってもらうことで官民学の体制を整え、併せてセベランプライ市にも地元のマレーシア国立科学大学との協力関係を構築してもらった。こうしてプロジェクトの主体として、両市、両大学、後述する両市の橋渡し役を担った「横浜セベランプライまちづくり友好委員会」(以下「友好委員会」)とJICAの通称「4+1+1」と言われるチームが出来上がった。 ▽ マレーシアは約33万?(日本の約0.9倍)、人口約3,200万人。マレー系69%、中国系23%、インド系7%となっており、国教はイスラム教である。対象地であるセベランプライ市はタイとの国境にほど近いペナン州に属する市で人口約86万人。アジア屈指のリゾートであるペナン島(ペナン市)の対岸 に立地し、経済や政治、観光の中心であるペナン島のベッドタウン的な位置の市である。マレー系42%、中国系41%、インド系7%と、貿易港であったペナンの影響で中国系の占める割合が高いのも特徴である。  なお、実は1980年代、技術職員交流で横浜市の都市デザインや道路・交通、廃棄物処理の職員が今回の対象地であるセベランプライ市と同じペナン州のペナン市に派遣されて様々なまちづくり提案を行ったことがあり、この技術交流の参加メンバーによって結成されたのが、今回の橋渡し役となった友好委員会である。都市デザイン分野では、ペナン市の中心、ジョージタウンの都市デザインプランを策定し(調査季報95号参照)、歩行者空間の整備などを実現している。その後ペナン市は歴史的建造物の街並み保存へと舵を切り、ジョージタウンは2008年、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。今回のプロジェクトのきっかけは、80年代の交流時はペナン市の都市計画職員であった、セベランプライのマイムナー市長(当時)の「横浜から得た経験をセベランプライ市職員にも学んで欲しい」という強い要望であった。同時期、横浜市には国際局が誕生し、2015年10月、先述の4+1+1の計6者で覚書を締結した。既に発展途上国ではないマレーシアだが、インフラ整備後の新興国に魅力を付加する都市デザインには可能性があるとJICAから認められ、約5,400万円の事業費がついたのである。 2.プロジェクトの開始  セベランプライ市に、都市計画が専門のファラ・ディラさんを若きリーダーとして各種専門性を持つ市職員によってタスクフォースチームが結成された。横浜からは横浜市国際局国際連携課と都市デザイン室、横浜市大から鈴木伸治教授、中西正彦准教授、藤岡麻理子助教、民間コンサルは山手総合計画研 究所/片岡公一さん、角野デザインノード/角野渉さんが、友好委員会の主要メンバーから元都市デザイン室・市大特任教授の国吉直行さん、元道路局・交通専門家の親松俊彦さん、元ペナン市職員で現在は民間都市コンサルのリム・フィシャンさんという陣容でプロジェクトは始まった。  対象地となったのはブキマタジャン地区(BM地区)。中国語表記「大山脚」のままにマタジャン山のふもとにある、古くから中華系の人たちが商売をしてきた交通の要衝で、ショップハウスという歴史的な民家兼店舗が多く残された旧市街地だ。周辺地域全体の中心となる寺院や生鮮市場もあり、その市場2階にはマレーシアでも最初期にスーパーマーケットができるなど、ショップハウスの店舗群と合わせて以前は何でも揃う買い物の街として栄えていたそうだ。しかし近年、スーパーマーケットは火事で焼失、ロードサイド型ショッピングモールのあおりを受けて、個人商店から客足が遠のいた。追い打ちをかけたのが鉄道駅の移転で、元・駅前通りはシャッター街と化していた。寺院や市場にはまだ活力を感じるものの、旧市街地の狭い道路に流入する物流のトラックや買い物客の路上駐車に悩まされていた。このような状況下のBM地区に、横浜の都市デザインを応用することで街の再活性化を描くことが我々 に与えられた課題であった。 3.タスクフォースチームとの議論  取組を始めてまず驚いたのは、地域の交通量や人口といった基礎データが全くないことで、その予定外の調査にかなりの時間を要することになった。調査では地元の方々とのまち歩きやヒアリングを行うのだが、タスクフォースチームのメンバーは当初、地域に入っていくことに消極的であった。横浜チームが現地にいられる時間は限られているため、タスクフォースチームに調査や作業を進めてもらおうと試みたものの、メール、skypeなど、各種ツールを使ってもうまく進捗管理できず、作業はしばしば停 滞した。訪問時、打合せにメンバーが集まらないことも多く、何事にものんびりとしておおらかな「マレーシアンタイム」には最後まで悩まされた。  背景としては、マレーシアはイギリス支配下にあった歴史を背景に多民族化が進んでいるが、経済的には華僑が圧倒的に強い。そのためマレー人優遇政策=ブミプトラが敷かれ、国立大学入学や公務員もマレー人が優先されている(実際タスクフォースチームは全員マレー系)。また宗教の違いも大きく、タスクフォースチームがBM地区に(入らないのではなく)入りにくいのは、豚を扱う市場や食品工場などがあることも一因となっているのだった。  BM地区の特性を探り、将来どのような街にしていくかを方向付けるアーバンデザインプランをつくるに当たっては、タスクフォースチームとワークショップを何度も行った。ただ、コンセプトをつくるような抽象的な議論は時に空回りした。彼らは横浜の話を聞いて、BM地区を歩きやすい街(walkable)にしたいと言う。しかし実際は、暑さのためマレーシア人が街を歩くことは滅多にない。であるなら、例えば市場の賑わいにフォーカスするべきだと提案すると、その場では一応了承されるのだが、彼らの資料からwalkableが無くなることはない。つまり、議論をしていても彼らは相手に異議は挟まず、相互に矛盾していても物事にヒエラルキーをつけて選択することもない。これも多民族間で衝突なくやっていく知恵なのだ。ただ、これでは議論は深まらないし、こちらの提案を押し付ける訳にもいかず、大変苦労した。何とかみんなで到達したコンセプトは「BM My Hometown:Livable town based on the local identity」。市場、寺院、ショップハウスといった地域の資源を活用して、まずは地域の生活、居住環境から再生しようという意味だ。これら地域の資源をネットワーク化するということで、最終的には彼らの提案であるwalkableについても全体計画にうまく取り入れることができた。 4.一難去ってまた一難  タスクフォースチームとアーバンデザインプランについて議論をしている最中、実は庁内の別チームがマーケットを地区外に移転する検討を進めていることが判明した。交通問題と市場の安全性が主な理由で、まずはスーパーのあった2階部分を早急に取り壊すという。2階部分は火事で閉鎖されてはいたが、位置的にも、機能的、心象的にも街の中心である市場が、もし地区外に移転してしまえば、わずかに残る個人商店にも大きなダメージを与える。2階を保全すれば、地域のコミュニティを育む場所、まちづくりセンターとして使えるという提案をタスクフォースチームと一緒にまとめ、緊急でマイムナー市長にプレゼンテーションを行った。当初、州との関係もあって難しいというのが市長の意見ではあったが、最終的に市場の2階は修復、1階の市場機能も存続し、地区内の周縁部に別棟を増築することで機能更新と交通負荷の軽減を図る案が受け入れられることとなった。  一方、ショップハウスについてはジョージタウンの活用事例もあることから、タスクフォースチームも当初よりその価値を認めていて、地区内の全数調査を行った。ショップハウスが連なって保全されることは、ショップハウスに付随する公共歩廊=5 foot wayによる歩行者ネットワークにとっても重要であった。また、先述のようにデータに基づくまちづくりの経験がなかったタスクフォースチームである が、親松さんの指導で交通量・駐車実態調査を行い、国立科学大学が分析を担った。結果的に計画時に分析は間に合わなかったが、今後は定量的な指標に基づいた施策、評価につながると期待している。  少しずつ状況が好転してきたプロジェクトの2年目が終わる頃、プロジェクトの強力な旗振り役であったマイムナー市長がペナン市長に任命され(市長は州知事の任命)セベランプライ市を去ることとなった。横浜チームとも地元の中華系住民ともつながりの強いマイムナー市長の交代は、市の最大のモチベーターを失うことでもあった。ちなみにマイムナーさんはさらにその直後、UNハビタットの事務局長に就任することとなる。 5.コミュニティエンゲージメント/Rakan BMの登場  横浜の都市デザインでは、長年、地域住民とのまちづくり(コミュニティエンゲージメント)に取り組んできたため、当初から積極的に地元とコミュニケーションをとったが、官の強いマレーシアでは、 地域と一緒に進めていくまちづくりはほとんど経験がないことが分かった。セベランプライ市も別地区においてコミュニティエンゲージメントを行ってはいたが、壁画を一緒に描くといった取組で、地域の主体性を育てるようなプロセスではなかった。都市デザインにおけるコミュニティエンゲージメントの重要性や進め方は本プロジェクトの根幹に関わる部分でもあるため、タスクフォースチームとの意識合わせに多くの時間を費やした。  一方、地元を巻き込んだイベント、例えばBM地区の歴史を再発見するヘリテイジウォークや、地域との話合いの場であるタウンミーティング、路地の一部を憩いのスペースに変える社会実験は、タスクフォースチームが自発的に、しかも短期間で大規模に実現していった。このことは実践の重要性を私たちに思い出させた。日本的な理論構築は日本の複雑な管理社会を突破するためで、必ずしもマレーシアでは必要ないのだ。私たちも彼らの“やっちゃえ精神”を取り入れつつ、そのプロセスの中で徐々に日本のやり方も伝えるようにしていった。  そんな中、市場の2階を地域のために使うことを目的として、地区の祭礼を取りまとめる中華系団体がまちづくりのNPO「Rakan BM(BM フレンズの意)」を結成してくれた。当初、市場の改修は最小限にしてまずは使ってみるというのが横浜チームからの提案だったが、このタイミングでのコミュニティ結成はありがたかった。街から直接この市場の2階スペースに上がる大階段に、彼らと一緒になって地元アーティストによるアートを設置した。外からよく見えるこの大階段は単なるPRに留まらず、彼らの活動のシンボルにもなっている。  しかし、プロジェクトの最終盤、Rakan BMメンバーと話す中で、中華系住民の大部分が現在はBM地区外に居住していることが分かり、ここに来てコンセプトを「Re:Livable town=もう一度住める街に」に変更した。最後の最後までプロジェクトの根幹に関わる情報が出て来ることに改めて驚いたが、良い悪いではなく、我々は違うのだ。国際貢献ではこの違いを認識して乗り越えることが重要であると再認識する出来事になった。 6.成果と今後の可能性  成果についてまとめる。まずプロジェクトの3つのミッションについてであるが、今回一番重要であるアーバンデザインプランの策定については、最終的にDRAFT(案)という形でタスクフォースチームに引き渡しを行った。今回作成したアーバンデザインプランは、まだよそ者(横浜チーム)がつくったものであるからだ。今後、タスクフォースチームがRakan BMや他のコミュニティとの議論を深め、自分たちの正式なプランとすることを宿題としている(実際にはマレーシアの多くの都市計画はDRAFTのま ま正式に運用されているが)。内容については、風水上も重要なマタジャン山への見通しの確保、歴史的建造物であるショップハウスの保全や活用の方針、市場の保全と新築棟のあり方、寺院や市場、水路をネットワークする歩行者空間、今後のロードマップなど、広範囲かつ具体的に記述したので、十分に活用できる内容となっている。  付属設備等の制作支援は、前述の市場2階のコミュニティスペース整備と階段アート、歩行者のための道づくり(シェードなど)、地区の歴史を伝えるインフォメーションボードと歴史的建造物を示すヘリテイジプレートを設置し、これらを紹介するリーフレットも作成した。これらの成果品はこれからのま ちづくりの方向性が具体的な形となって見えるもので、アーバンデザインプランの理解にも役立つと地域やタスクフォースチームにとても喜ばれた。  職員の研修については、OJTに加え、丸1か月、延べ9人を受け入れた横浜での職員研修が効果を発揮した。3つのミッションの中ではこの研修が一番成果の見えにくいものであったが、プロジェクトの過程において意思疎通を徐々に円滑にし、最後はコミュニティエンゲージメントへとつながった。これは様々な主体と取り組むことで成果を生む、横浜の都市デザイン手法そのものである。  ただ、何といっても当初の予定になかったにも関わらず、地区内に市場の機能と建物を存続できたことが実際には大きな成果となった。こちらは実践しながら想定もしていない成果に到達したという意味で「マレーシアンスタイル」でもあった。今もRakan BMのFacebookには市場2階を楽しそうに使いこなしている様子がアップされ続けている。また、新市長であるロザリ市長からは、タスクフォースチームをベースに都市デザイン室のような組織をつくりたいという表明もあり、今後が期待される。  プロジェクトも一段落した2019年7月、130年の歴史を持ち、市場と並んで街の中心である寺院、玄天廟が燃えているとFacebookに次々と画像が上がり、寺院は外観の一部を残し、内部は全焼してしまった。が、現地からはある種前向きな雰囲気も伝わってくる。また横浜の知見が必要となることもあるに違いない。80年代の交流が、時に個々人のつながりによって続いてきたように、我々もこの先のBM地区に関わり続けていきたいと思う。 [執筆協力] 桑田 雄飛(国際局国際連携課担当係長)、宮坂 修義(国際局国際連携課担当係長)、小田嶋 鉄朗(環境創造局動物園課担当課長/元都市デザイン室担当係長)、松本 尚子(文化観光局観光振興課/元国際局国際連携課)、親松 俊彦(横浜セベランプライまちづくり友好委員会)、国吉 直行(横浜セベランプライまちづくり友好委員会/横浜市立大学)、片岡 公一(山手総合計画研究所)、角野 渉(角野デザインノード)、藤岡 麻理子(横浜市立大学)