《15》私たちはわからないことに希望を見い出せるのか〜多文化共生を推進するための必要条件 執筆 滝田 祥子 横浜市立大学国際総合科学部教授(多文化社会論担当) ヨコハマ国際まちづくり推進委員会委員  私は横浜市立大学で1997年から多文化社会について学生と共に考える授業を担当し、今年で23年目になります。長年の授業を通じて、私が得た実感は、「わからないから、わかりたいと思う。わからないから、問いかけ続ける。」ことが、多様なバックグラウンドを持った人々が集まる社会で、ともに関わり合いながら生きていくことの必要条件であることです。多様性が境界線を幾重にもつくり出したり、ホスト社会のやり方に強制的に同化させ多様性を見えなくさせたりすることでは、これからますます進展 するグローバル化社会を生き延びることはできません。人類社会全体として、私たちが生きていくことの本質が問われています。  大学で教える前は、アメリカ合衆国の西海岸で10年近く生活していました。その10年間は、アメリカにおいてマルチカルチュラリズム(多文化主義)が社会の主流な考え方として誰もが賛成していた(もしくは、賛成せざるを得なかった)時代であり、なんとも表現しがたい熱気に包まれていました。私が研究活動を行っていた大学が、スタンフォード大学やカリフォルニア大学ロサンゼルス校というこうした動きの中心であったこともあり、当時の熱気や興奮した人々の物言いなどが未だに鮮明な記憶として残っています。  カナダやオーストラリアにみられる官製の多文化主義政策とは違い、アメリカにおいては、いわゆるマイノリティと総称された人々の草の根からの叫び声にも似たエネルギーが社会を動かし、マイノリティが主流になっていく過程でもありました。まさに、これからつくり出される社会は、これまでの社会とは違うのだという混沌とはしたものの、希望に満ちた時代でした。  残念なことに、そのエネルギーは、分断や対立を生み、1992年のロサンゼルス暴動(蜂起)やその後の流れによって、保守的な雰囲気が醸成されるに至ります。  一方、私が帰国した当時の日本は、川崎市で外国人市民代表者会議が発足したり、定住外国人の地方参政権付与が確実なものとして予感されたり、それまで強固であった「国籍」概念が相対化され、おそ らく近代日本国家の歴史の中で、もっとも「多文化共生」に近い未来に開かれた状況がありました。しかし、日本でも2001年9月11日の世界同時多発テロ以降、アメリカ合衆国同様、流れが逆行していきました。  「多文化共生」社会とは、未だ成功した実例がないほど、流動的かつ可変的であり、一歩間違えば、対立軸がいくつもある分断社会で争いが絶えない状況を生み出します。その間違いは、どうも「わかりやすい」社会で生きたいという、人間の本能にも似た習性が生み出しているような気がしてなりません。それは、言い換えると、たった一つの正解や正義がある社会をどこか求めてしまうようなことでもあります。  多文化主義に舵取りをした社会は、これまで多くの場合、分断化を生み出し、排除や排斥が激化する事態を招き、もともとの多文化主義を否定する方向に動いています。しかし、人類社会が生き延びる方法は他にはないかもしれないと、いまだに世界中で希求されている将来のビジョンでもあります。  2018(平成30)年10月に策定された横浜市中期4か年計画(2018−2021)でも、「政策4 グローバル都市横浜の実現」に政策の目標・方向性として「市民の多文化理解や国際感覚醸成も進めながら、日本語支援や地域コミュニティとのつながり支援等により、在住外国人との多文化共生を一層推進します。」が掲げられているのは、おそらく、その重要性が政策の中でも顕在化してきているからでしょう。  本稿では、これまで、私が横浜市の多文化共生ビジョン作成に関わってきた経験と昨年韓国で多文化政策の実態に触れた経験をもとに、更に具体的に考えていきます。 平成25年度横浜市外国人住民インタビュー調査  本特集のYOKEの報告の最後にも、「私たちは今、多文化共生まちづくりの第2ステージのとば口に立っています。私たちはどのような社会を目指していくのか。それが問われているのです」(20ページの原文から要約)と書かれていますが、そのような変化が見えてきたのが、2013(平成25)年度の外国人住民意識調査の結果からでした。横浜市在住外国人の「滞在の長期化」「定住化」「家族滞在」という傾向が顕著に現れ、日本語に習熟したその先の生活の部分を具体的に知るため、私は東京女子大学の石井恵理子先生とともにインタビュー調査を実施しました。意識調査回答者1,505名のうち、インタビュー調査に協力したいという回答が222名も寄せられたというのも、調査される側の「外国人住民」からのラブコールのようにも感じられました。予算と時間の都合で24名の方に市役所会議室でインタビューすることになりましたが、みなさん、様々な困難を抱えながらも、「自分たちの声を聞いてくれるだけで嬉しい」と言って来てくれました。行政の施策に対する不満が多く聞かれるのかもしれないと最初は構えていましたが、そのような発言はほとんどなく、横浜市で生活する中で気づいた日本社会の特徴や壁、それを乗り越えた工夫の数々など、一人一人のユニークな人生の軌跡が生き生きと語られました。そしてそれは、話を聞き取った私たちの意識も変えるほどの強いインパクトがありました。3か月にわたり、一人1、2時間かけて聞き取ったライフストーリーは、その後の多文化社会論の授業でも紹介しています。横浜市の人権研修でも使わせていだだき、そのご縁で中区の多文化共生ビジョンづくりにも関わるようになりました。 中区多文化共生推進アクションプランの実践  中区は、2016(平成28)年度に「みんなヨコハマ中区人」というビジョンの実現に向け、「外国人とともに暮らすまち」のあるべき姿を職員が共有しました。@多文化バリアフリー、A尊重、B社会参加、の3本柱からなる行動計画をつくり、区役所が一丸となって取り組んでいます。  「アクションプランをみずからのアクションとする皆様へのメッセージ」という一文を第1期プロジェクト終了年度末に寄せました。少々長いですが、その原文を一部抜粋してここに載せます。  『このアクションプランは行政職員である一人一人のプロジェクト参加者とその方々が所属する課のメンバーによって作られたものです。第6回と第7回に行ったアクションラーニング・セッションで、学習会や検討会で新たに知り得た知識と事実に立脚しつつも、プロジェクトチームの仲間による問いかけ合いによって、日々の問題を見る視点を少しずらし、問題の「再定義」を行いました。その上で、チームとして異なる課の間での連携や協働の可能性をさぐり、机上の空論や理想論で終わらせない現実的に実行可能な行動計画(検討会の中ではお蔵入りサイクル≠回さない、という言葉で表されていました)を立てました。アクションラーニングはイギリスのレグ・レバンスが発案した「対立を生まない対話」の手法で、チームメンバー同士の問いかけ合いによって、目の前の問題の本質的な姿を精査し、新たに浮かび上がってきた問題像から、問題解決後のゴールイメージを想像するものです。それに向け て具体的なアクションプランをつくる過程で、「そうするように言われるからではなく、そうしたいと思い行動する」ビジョンを明確にしていくのです。今回の『中区多文化共生推進アクションプラン』はそうした経緯でつくられた、いわゆるボトムアップのプランであることが、これまでに様々な地方自治体から出された多文化共生プランのいずれとも違うユニークなものなのです。  機を同じくして、私も策定委員として関わった「横浜市多文化共生まちづくり指針〜創造的社会の実現に向けて」が公表されました。素案に関するパブリックコメントに、「全体に素晴らしい理念が表現されているが、役所は具体的に何をするのかわからない」という趣旨の意見が散見されました。中区役所は、横浜市の指針を先取りし、独自の手法でより具体的なアクションプランをつくりました。さあ、今ここから横浜市指針と中区アクションプランが行動期間として設定している3年間が始まります。仲間 とともに、一歩ずつ着実に前へ進んでください。』  アクションラーニングは、問題提起に対して、質問をつないでいくことによって、多様なメンバーの視点を生かし、一人では見えていなかった問題の本質にチームワークを通じて気づくという手法です。そして、その気づきに従って、行動する計画を立て実行し、その実践を再び反省的に検討することを繰り返します。これまで、プランはつくるが行動が伴っていない事例が多かった横浜市の多文化共生政策ですが、この中区の取組は具体的な行動が伴っていたという点で画期的でした。  この流れを更に進めていくために、2018年11月に日本同様に国民の均質性の高い隣国韓国の多文化政策の先進事例の視察に行きました。 韓国の多文化政策の現状  ソウルに到着してすぐ、市内の様子を滞在先のホテルから市場、繁華街、ソウル市庁舎周辺まで歩いて探索しました。町の住民が明らかに外見の違う外国人に対して、とても自然な応対の仕方をしていることに大変驚きました。私は、1988年、2001年にソウルを訪問したことがありますが、それらの訪問時と比べて明らかな違いを体感したのです。大韓民国歴史博物館の展示では、現在に至る歴史が、特に外国人移民受入れの実態や外国人の人権を考慮した政策の数々とともに展示の重要なテーマになっている ことに驚かされました。これらの展示を各国語で案内するツアーも毎日あります。  富川市の多文化家族支援センターを訪問しました。近年特に力を入れているのは、近隣のホスト社会住民の意識を変えることにあり、多文化家族は支援の必要なかわいそうな人たちであるというイメージを払拭し、「郷に入れば郷に従え」というホスト社会がこれまで持っていた認識を変革することを焦点にしているそうです。ホスト社会が多文化家族に対して自然に接することができ「美しい心の通い合いでこの社会を一緒に作っていく」ことを目的に活動しています。  また、ソウル市外国人市民会議代表者の主催する多文化フェスタに参加して代表の方とお話しする機会もありました。2015年に設立され、この間1か月に1回程度の会合を重ね様々な政策提言をソウル市庁の職員と共に作ってきたそうです。ソウル市が一番力を入れているのは、移民の「力量強化」政策で、その一環としてこの会議が位置付けられています。この会議ができたきっかけは、ソウル市が国際結婚の離婚率が高いことを『問題』と考え、異文化理解のための一つの施策として考案したことにあります。  なにか『問題』があると、それに対して行動をとる姿勢は、他の多文化政策にも共通しています。『問題』に対して対処しつつ、『問題』の形が変われば、それを踏まえて再定義し、どんどん変化を生んでいくのが韓国の多文化共生への姿勢のように感じました。現地でお目にかかった日本人の方からは、「韓国は民主社会だから、どんどん変化をしていく」、「未来のことは、想像してもわからない。一歩ずつとりあえず行動し、変化をうみ、また、立ち止まって考えていくというのが政策の基本にある」ということを教えていただき、日本の行政のあり方との違いを感じました。  ソウル市内のタソン観光高等学校は2012年に設立された学校で、多文化の子供を対象に教科学習と専門職業教育を組み合わせています。設立のきっかけは、学校に通うことの難しい「学校の外の子供達」という『問題』が当時あり、それに対処するためにソウル市、ソウル市教育部と韓国教育長がMOU(※1)を結んで設立した特性高校です。学費はすべてソウル市から補填されているので、無料です。ソウル市が結婚移民の女性が通訳資格をとることを全額援助しており、資格を取った後にこの学校で韓国語 が不自由な生徒の学習補助に入ってもらっています。ボランティアではなく、正規の給与を支払っている点が、ボランティアに頼っている日本と大きく違います。こうした学校では、母国を離れて暮らし、家庭環境も複雑な子供たちにアートセラピーなど芸術や音楽を取り入れた心理的な支援を重点的に行っていることも日本と違う特徴として挙げられます。演劇を教育に取り入れている学校もあり、全て国が援助している活動だそうです。同じような学校であるソウルオンドリーム教育センターは、2015年に現代財閥の全面出資で設立されたそうで、民間からの財政援助も潤沢にあることがわかりました。  ソウル市庁舎でソウル市の多文化共生部門課長のベトナム人ファムさんにお話を伺いました。ソウル市では多文化政策を担当している部署の専任職員が21名(うち外国出身4名)おり、年間予算は200億ウオン(約20億円)。この部門の目的は4つで、@外国人の人権を守る、A多文化家庭が安全に韓国社会に定着する、B外国人住民自身の力量強化、C韓国人と外国人の交流を促進する、ことです。この部署ができた当初は韓国語支援に重点を置いていたそうですが、今は多様性の確保と子供たちへの支援にシフトしているということでした。ホスト社会が変化してきて、多様性を受け入れる姿勢が自然になってきたと感じているそうです。放送やメディアの役割も大きく、その雰囲気を醸成しており、一般市民が、外国人と一緒に暮らしていることにメリットがあると感じてきているということです。ソウル市の外国人総合支援機関ソウルグローバルセンターには、外国人が移住するときに必要なサービスが一つのビルにワンストップの形で揃っており、大変便利な機関で、サービスは韓国語教育やカウンセリングを含めて全て無料で提供されているということです。 動きながらつくる新しいよこはま  韓国は1997年のIMF経済危機を経験することにより、これまでのような単一民族主義により異質な人々を排斥する態度ではグローバル化を生き抜くことができないという認識の一大転換が起きたそうです。それは国民全体を巻き込んだ世界観の変化で、固定化した国家観から流動的かつ相互調整的なプロセスを生きる国家観への転換です。流動的に生きるということは、わからないことに常に出会い続けることだとも言えるでしょう。そのような世界に対応するためには、マジョリティだと思っている私たちも、それにふさわしい力量をつける必要があります。もちろんそのような世界観は、本稿を読んでくださっている横浜市職員の方々からは想像もしていない、想定外のものだと思います。しかし、世界の 潮流を見てきた私には、韓国が今まさに試みつつ、成功している多文化共生のあり方が、様々な解を検討した先に行き着く、納得解のような気がしてなりません。日本も韓国も後発的移民受入れ国として、これまで欧米の先発的移民受入れ国の失敗を見ながら、様々な施策をとってきました。日本と韓国がここまで違った道を歩んでいることは、韓国の方が日本より後に移民受入れ対策を取り始めたという運命のいたずらかもしれません。多文化政策を取り、成功している国が少ないだけに、韓国の動向をこれか らも注意深く見ていきたいと考えています。 人権という芯  本特集の外国人の人権についてのコラムに書かれているように、「そもそも人は、それぞれ違う条件のもとに生まれます。国籍や文化の違いにかかわらず、同じ横浜市民として、互いを理解し、日本人も外国人もともに地域社会を支える主体となるよう、一人ひとりが互いに人権を尊重し合い、ともに生きる社会を目指しましょう。」そうした社会は、再び本稿で引用したYOKEの項の締めくくりの言葉につながります。「住民の多様性が地域の個性として好感され、同時にまとまりを欠くことなく相互に認め合い・支え合う社会はどうだろう。参考にしたいのがラグビーワールドカップ日本大会の日本代表チーム。多様でありながら一体感もあるチームの姿は示唆を与えてくれる。新しい「チームづくり」の道のりは平坦ではないが、未来を見据えて本格的に取り組む時期を迎えている。」1981年から横浜の多文化社会に寄り添い、関わり続けてきたYOKEだからこそ気付けた、現実の体験に根付いた力強い決意表明だと感じました。この先の社会に希望を持つとしたら、流動性に伴うわからなさに耐える力量が必要です。 ※1 MOU(Memorandum of understanding)  了解覚書。韓国社会では異なる2団体(行政団体に限らず)が共同で行動する場合、その行動内容についてお互いの了解を文章化することを日本と比較すると頻繁に行っている印象がある。