《8》地域の取組 @Rainbowスペースの活動を通して 執筆 林 錦園 なか国際交流ラウンジ「Rainbowスペース」コーディネーター  本稿では、外国につながる若者たちの居場所である「Rainbowスペース」の設立からの経緯、活動を振り返るとともに、私自身の「ライフヒストリー」にも触れながら、この活動が多様化する地域社会に、そして若者たちにもたらす意義についても考えたい。 1 「Rainbowスペース」の立ち上げ  2017年11月、「中区外国人中学生学習支援教室」(主催/なか国際交流ラウンジ)の卒業生たちによる運営委員会「にじいろ探険隊」(以下「探険隊」という。)が結成された。探険隊は、なか国際交流ラウンジ(以下「ラウンジ」という。)、中区役所、横浜市国際交流協会のもとで、外国につながる若者たちの居場所「Rainbowスペース」の企画・運営を担い、自己表現活動をはじめ、後輩である小中学生への学習支援、語学を用いた通訳、翻訳などの地域貢献活動などを行うグループである。  私は中学三年生のときに学習支援教室の1期生として支援を受けたが、私と同様に学習支援教室を卒業した後輩の高校生・大学生の7人のメンバーが様々な思いを持ってラウンジに集まった。「同じ苦労を後輩にさせたくない」と語る者もいれば、「充実した高校生活を送りたい。何かを始めたい」、「たくさんの友だちをつくって、様々な経験をして、自分の視野を広げたい」と活動に参加した者もいた。そして誰もが「外国につながる若者のため、後輩のため」という思いで探険隊が結成され、「Rainbowスペース」 の活動が始まった。 2 どんな居場所にしたいのか  「どんな居場所にしたいのか」については、探険隊のメンバーたちで何回も話し合いを重ねた。特に居場所の「意義」については侃々諤々の議論が続いた。そこで、私たちは「外国につながる子ども・若者」として生きてきた自分自身の悩み、苦労、モヤモヤを振り返ることにした。  探険隊のメンバーで大学一年生のAさんは、「夏休みだから遊びに来てと親に言われて日本に来た。しかし、休み明けに中学校に入学させられた」と来日当時を振り返り、「不本意なまま日本生活が始まった」と続けた。高校二年生のBさんは「安心して素の自分で居られる場所」が重要だと強調した。学校にいるときは「学生」でいなければならないし、家にいるときは「子ども」でいなければならない。でも、ラウンジに来れば、自分の話を聞いてくれる人がいて、家族よりも自分を理解してくれた。Bさんは頻繁にラウンジを訪れ、高校一年生のときから学習支援教室のサポーターとして後輩の中学生に日本語と数学を教えている。高校三年生のCさんは「勉強したいが、何をどうすればいいのか分からなかった」と高校入学直後の自分を振り返った。Cさんはラウンジを訪れ相談し、学習支援教室のときのサポーターを再び紹介してもらい英検に向けて勉強を始めた。「自分と同様な若者は多いはず。でもラウンジには、その気持ちを形にしてくれる先生がいる」と言った。このように、メンバーは自らを振り返りながら、多様な可能性が溢れる空間を目指すことにした。「安心できる居場所」、「学びたい・知りたいをつなげる空間」、「自分の可能性に気づき、表現できる場所」。それは、「にじいろ探険隊」の達成目標となった。これまでの「不本意な漂流」に終止符を打つとともに、広く先の見えない「日本」という海の中で「なりたい自分」を考える。そして全力を尽くした「探険」をしたい。それが、自分らしく生きるということだと考えている。 3 これまでの挑戦  「Rainbowスペース」では、2017年12月25日にプレオープンして以来、これまでに56回の活動を行い、延べ1,473人の若者が参加してくれた。そのうち参加者も運営側に加わり始め、「探険隊」メンバーは現在17人になった。  メンバーたちは活動の中で様々なことに挑戦している。月に2回、月曜日には、後輩のための「先輩の話を聞く会」や、「夏休み小学生教室」、「中学生受験サポート」を開催した。様々な自己表現を試みようと「運動会」や「演劇発表会」も実施した。  そして、今年の夏には映画「向陽而生〜私らしく生きること〜」の自主制作にもチャレンジし、第9回中区多文化フェスタで上映を行った。この映画はメンバーたちの実話をもとに、「自らの運命」を切り開いて行こうとする若者たちの姿を描いている。  さらに、通訳・翻訳ボランティアとして外国人集住地域の防災訓練や餅つき大会、ごみの分別知識を伝える3R啓発セミナー、祭りなどのイベントにも関わった。地域の一員としてイベントに関わることは、もう一つの「成長の場」であった。町内会の方々とイベントの設営、運営をしながら、自然と会話が弾んでいった。私たちは外からの「お客さん」ではなく、「ここにいていいんだ」と思えた。言葉の壁から参加をためらっていた外国人住民は、私たちが母語で声掛けをしたことで輪に入ってきてくれた。探険隊の若者たちは、「自分にしかできないことがあり、誰かの役に立つこともできる」という体験をした。 4 なか国際交流ラウンジと私  私のライフヒストリーに触れながら、「Rainbowスペース」の活動の意義について考えたい。  2009年、仕事の関係で先に来日した母と一緒に暮らすために、私は中国から来浜した。中区の公立中学校の二年に編入したが、日本語の不自由な私は、声を奪われ、手足を縛られる人形になってしまったようでしばらくの間は支援がないと前に進めない状況だった。  そんなとき、心が休まる場所となったのは、放課後に通っていたラウンジの学習支援教室だった。ここには同じ言葉を話す友だちや、言葉も文化も共有できる中国出身のコーディネーター・中村暁晶さん(現ラウンジ館長)がいた。「ここでは中国語を話してもいいんだ。中国語でも話を聞いてくれる」と、周囲の目を気にせず母語を話すことができた。ラウンジは「素の自分でいられる、居心地のいい場所」だった。  中学卒業後、私は高校、大学に進学した。日本語も上達し、世界は広がり将来の進路、アルバイト、友人関係、次々と遭遇する出来事に精一杯の日々が過ぎた。しかし、至る所で「小さい頃から来ているから、中国語も日本語も話せていいね」と言われたり、自己紹介すると真っ先に「日本語上手ですね」と褒められたりして、私という人間よりも「外国人である」という一側面を捉えられ「日本語」だけが評価されることにモヤモヤを感じていた。そして、「日本語ができないゆえにできなかった経験」もトラ ウマになり、いつしか多くのことに臆病になっていった。その気持ちは誰にも理解されず、自分でも言葉にすることができなかった。  そんなモヤモヤを抱いていた大学二年のとき、私はもう一度ラウンジに戻り、大学で専攻した日本語教育の知識を活かし、「支援される側」から「支援する側」になろうとサポーターとして活動を始めた。「先輩はなぜ日本語がこんなに上手になったの?」、「私たちはどうしてこんなに日本語を頑張らなきゃいけないの?」、「高校はどんな感じ?どうやって大学まで行けたの?私にはできないと思うけど」。私がサポートしていた中学三年生の女の子から矢継ぎ早に質問が飛んだ。これまでの自らの経験を語ると、 とても参考になると言われた。私が「苦労」だと思っていた日本語の勉強やそれまでの経験は、後輩に伝えられる貴重な「宝物」となっていた。自分にしかできないことや、誰かの役に立つことがあることを実感した。それまで私は「自分には日本語と中国語しか取り柄がないからそれらを生かした仕事をしたい」と思っていたが、「複数の言語・文化間で生きてきた自分だからこそできることをしたい」と思うようになった。その気持ちが私を後押しし、自身と同じ境遇にいる子ども・若者を支えようと、現在は 「Rainbowスペース」のコーディネーターとして活動を続けている。  中区での暮らしが10年目になる私の「ライフヒストリー」を振り返ると、「支援される側」から「支援する側」への転換の「軌跡」だった。「Rainbowスペース」の取組により、私と同じような「軌跡」を描く若者もどんどん増えていくに違いない。いま暮らしているこの地の一員であるという帰属感は、「人と人をつなぐ架け橋」となる自身の役割を後押ししてくれる。そしていつかは「外国につながる若者」というカテゴライズされた人生を脱し、自分らしく生きられるようになるだろう。私たちの「探険」は続いていく。