《5》横浜における華僑・華人の160年 執筆 伊藤 泉美 横浜ユーラシア文化館副館長  港町ヨコハマ、国際都市横浜をイメージしたとき、そこには横浜中華街の存在が不可欠である。山手の洋館や外国人墓地に表される「西洋」とともに、横浜中華街が放つ、もう一つの異国情緒が、人びとを横浜に惹きつける。中華街のない横浜を想像するのは難しく、この街は横浜という都市の顔の一つと言ってよい。それでは、なぜ、いつから、中華街は横浜にあるのだろうか。この素朴な疑問について、そこに暮らしてきた華僑華人(※1)の歩みを中心に考えていきたい。 ■横浜開港と中国人  間もなく終わろうとしている2019年は、横浜が世界に向けて開港してから160年の年であった。1859年7月1日、幕府と欧米5か国とが結んだ条約に基づき、横浜は対外貿易港として開かれ、外国人居留地が開設された。当時、日本にやってきた外国人は、原則的にこの居留地の中でのみ、居住と経済活動を許された。現在の山下町・日本大通り・山手町が旧外国人居留地である。  横浜に進出してきた欧米商社などの多くは、香港や上海からやってきた。これらの中国の都市は対外開港されてからすでに 20年近くが経っており、極東地域の足場を固めていた商社が、新たに開かれた 横浜に進出してきたのである。その際、欧米商人は、中国人を伴ってきた。なぜならば、欧米商社などでの経験のある中国人は欧米の言語や商習慣を理解し、また、日本人とは漢字で筆談することができたからだ。意思の疎通なくして、生糸やお茶の売買など、貿易活動は展開できない。中国人は西洋人と日本人をつなぐ仲介者として、横浜の経済を握るキーパーソンだった。  1875年に横浜を訪れた、英国人の旅行作家イザベラ・バードはその著書の中で、中国人商人の重要性を指摘し、中国人は「いつでも横浜の金融活動にブレーキをかけられる力を持っています」と書き残している(※2)。  横浜外国人居留地で中国人が果たした役割はそれだけではない。1860年代から横浜で発行されていた英字新聞や在日外国人年鑑には、中国人の洋裁店、工務店などの広告が数多く掲載されている(※3)。西洋人が横浜で暮らすためには、洋服や洋館、またパンなどが必要だったが、幕末明治期の日本人はまだそうした西洋の技術を身に付けていなかった。そこで、香港や上海からその分野の中国人職人が大勢やってきたのである。中国人は西洋人の衣食住を支える役割も担った。  このように、開港場横浜において、経済面・生活面、いずれでも中国人は不可欠な存在であり、横浜在住外国人人口の常に半数以上を占めていた。ところで、ここで少し考えてほしい。日本は、英米仏蘭露の欧米5か国と条約を結び、開国・開港した。しかし、開いてみれば、やってきた外国人の大半は、条約を結んでいない中国の人びとだった。つまり、日本の開国・開港は対欧米とともに、対中国への開国・開港の意味を持つ。日本と清朝中国は1871年に 条約を結び、その後、中国人人口は順調に増えていった。 そして、横浜に暮らす中国人は外国人居留地の一角に集まり住むようになり、関帝廟を開き、学校をつくり、華僑社会が成長していった。  現在、中華街に鎮座する、極彩色の関帝廟は四代目の関帝廟である。幕末の1862年に前身の小さな祠が現在地に祀られ、1871年に初代関帝廟が建立し、1891年の大改築を経て、城郭と見紛う横浜名所の一つとなっていった。大正初めの横浜のガイドブック(※4)では、関帝廟の主神関羽の誕生祭である「関帝誕」を横浜の年中行事として紹介しているし、1910年の大規模な関帝誕では、きらびやかな神輿と行列が山下町を練り歩き、記念絵葉書が発売されるほど話題を呼んだ。当時の華僑社会の繁栄ぶりを示すと言えよう。 ■二つの試練を乗り越えて  1923年9月1日、関東大震災が横浜を襲った。古いレンガの建物が多い中華街は壊滅的な打撃を受けた。在住中国人5,700人余りのうち、1,700人余りが亡くなり、生き残った人びとも阪神や広東・上海などの故郷に避難した。関帝廟も倒壊焼失した。  しかし、中華街は復活した。震災後は貿易商に代わり中華料理店などが増えていった。地元横浜の政財界との友好団体であった中日協会は、中華街大通りには、鉄筋コンクリートで中国風の建物を建てるよう推奨し、1930年代初めには、昭和モダンな中華街の街並みが整った。  だが次第に中華街にも戦争の足音が近づいた。1937年に日中戦争が勃発すると、本国生まれの一世を中心に帰国者が相次ぐ。しかし、この段階では横浜に中国人がやってきた幕末開港時から既に80年近くが経ち、横浜生まれ、横浜がふるさとである華僑がコミュニィティの大半を占めており、彼らの生活の基盤は日本にあった。戦時下にあって、華僑の自治組織・中華会館をはじめ、横浜の華僑社会は、日本の傀儡政権である汪精衛政権を支持するという選択をした。その結果、日本と中華民国は戦争状態にあったが、日本の支持する政権のもとにある横浜華僑は、移動や居住についての厳しい制約を受けたが、交戦国の敵性国民である英米仏などの人びとが外国人収容所に抑留されたのに対し、中華街などでの生活を保障された。 ■中国人だけではない中華街  世界各地のチャイナタウンと比較して、横浜の中華街の最大の特徴は、地元社会との良好な関係を保持してきたことだろう。海外の中華街は夜に食事をするには危険だとされる場所が多いが、横浜の中華街は、むしろ美味しい夕食を楽しむ場所である。歴史的にも、外国人居留地の時代から、中華街は中国人だけの街ではなく、欧米人もホテルやパン屋を経営していたし、日本人の妻も多かったことから、家族や隣人として中華街に暮らす日本人も大勢いた。太平洋戦争中も、華僑の多くは中華街に防空壕を掘り、町内会の戦没者追悼会に参加するなど、地元社会との関係を保つ努力を続けてきた。1945年5月29 日の横浜大空襲では、多くの華僑華人が被災し、中華街は再び、焦土と化した。震災後に再建された第 二代関帝廟も再び倒壊焼失した。 ■戦後の成長と近年の変貌  それでも、中華街は復活した。戦後は進駐軍から配給される小麦粉を使ったドーナッツを売ったり、本牧沖で獲れるイワシを揚げて天丼にしたりと、中華街大通りは屋台でにぎわった。  戦後十年目の1955年、大通りの入口に「中華街」と掲げた大きな門が建てられた。門の反対側には「親仁善隣」の文字。これは「春秋左氏伝」の「仁に親しみ隣に善くするは、国の宝なり」の言葉に由来する。戦時下を生き抜いた日中両国人の思いが、この四文字に託されている。門の建設には、華僑華人と日本人の有志が尽力し、また横浜市と神奈川県も賛同した。それは、戦後横浜の復興、特に観光復活の柱に中華街をという狙いがあったからだ。その期待に応えて、1960年代の経済成長、1970年代の日中国交正常化とパンダブーム、1980年代のバブル経済と、中華街は活況を呈していった。  その一方で、中華街を支える華僑社会に変動が起きていた。1970年代末の中華人民共和国における改革開放政策を受けて、1980年代中頃から、新たに中国からやってくる新移民、いわゆる新華僑が激増した。1985年までは5千人前後であった横浜 市内の中国人人口は、1986年以降、毎年千人ずつ増え、1990年には約9,600人、2005年には約2万4千人に達し、20年で5倍となった。この傾向は、近年、市内のコンビニで中国人店員が増えたことからも実感できるだろう。  今年、2019年には中国人人口は4万を超え、中華街には新華僑が経営する店が急増している。中華街は変貌を遂げ、横浜の華僑華人社会も変わっていくが、それはすなわち国際都市横浜、多文化共生都市横浜の変貌の姿でもある。 ※1 一般に本国の国籍を保持する人を「華僑」、居住国の国籍を保持する人を「華人」と呼ぶ。 ※2 時岡敬子訳『イザベラ・バードの日本紀行 上』講談社 ※3 英字新聞には The Japan Herald,外国人年鑑には The Japan Directoryなどがある。 ※4 『官署学校病院社寺遊覧商業案内』1913年、横浜開港資料館所蔵 [その他参考文献]  伊藤泉美『横浜華僑社会の形成と発展―幕末開港期から関東大震災復興期まで』2018年、山川出版社 『横浜中華街150年―落地生根の歳 月』2009年、横浜開港資料館