《4》横浜における在住外国人支援/多文化共生の取組の変遷〜YOKEの38年間を振り返りながら 執筆 坂本 淳 公益財団法人横浜市国際交流協会 常務理事兼事務局長 1 はじめに  日本人の人口減少が進む一方で、在住外国人が増加し、横浜市でも今年の4月に10万人を超えた(※1)。国の外国人受入拡大方針のもと、外国人の受入環境整備が始まり、多文化共生のまちづくりを本格的にデザインする時代に入った。新時代のとば口に立った今、今後の取組に資するよう、これまでの経過を改めて振り返りたい。主に(公財)横浜市国際交流協会(以下「YOKE」という。)の活動歴を当時の時代背景とともに追いながら、在住外国人支援や多文化共生の取組の変遷を10年単位でたどっていく。 2 YOKE誕生前までの外国人等の状況  YOKEが設立される前、横浜市の在住外国人はどのような状況であったのか。戦後のサンフランシスコ講和条約締結当時まで遡って概観してみる。  1952年12月末で横浜市の外国人の総数は12,568人。YOKEが設立された81年の3月末で20,619 人。およそ30年の間に外国人は8千人余りしか増加していない。70年代までは推移を示すグラフ曲線(図1)もなだらかだ。年に5千人〜6千人増加する今日とは隔世の感がある。52年当時、在住外国人 の過半を占めたのは韓国・朝鮮人で6,861人。それが81年には12,689人とほぼ倍増した。一方、次いで多い中国人は4,213人から4,430人と200人余りしか増えなかった(※2)。韓国・朝鮮人と中国人で 52年当時在住外国人の88%を占め、81年でも85%を占めていた。  この時代、横浜において在住外国人とは、主に、歴史的経緯から戦後も日本に生活の本拠を置いた在日韓国・朝鮮人であった。今日のような多文化共生や在住外国人支援の取組がない時代に、民族団体を立ち上げて結束し、自助努力で生活基盤を築いていった。それは戦後いち早く民族教育を担う横浜朝鮮初級学校を創立(46年2月)したことにも表れている。一方、戦前から華僑コミュニティを築いてきた中国人も横浜中華学校(46年9月)や関帝廟(47年)の再建など戦後復興に団結して力を尽くしていた。  神奈川県自治総合研究センターでは、80年代初頭に「国際化に対応した地域社会のあり方」をテーマとして在日韓国・朝鮮人を対象に聴き取り調査(※3)を行っており、その中で、住居の差別や就職差別をはじめ、通名使用や結婚のことなど生活の実態を浮き彫りにしている。また、同センターは、調査の一環で、83年に新規採用された県職員600人余りを対象に「外国人に対する意識調査」も行っている。当時20歳前後の日本人が在住外国人についてどの程度の認識であったかが表れていて興味深い。それによると、「あなたは、神奈川県内に住んでいる外国人のうち、どこの国の人が多いと思うか」の設問に対して、回答者の66%が「米国」、22%が「大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国」、11%が「中国」と答 えている。さらに、「あなたは、県内に住んでいる外国人は税金を納めていると思いますか」に対して、 61%が「いると思う」、20%が「いないと思う」、18%が「わからない」と答えている。この時代に外国人の大半を占めている在日韓国・朝鮮人の存在が見えておらず、また、社会における外国人についての基本的な理解も十分ではないというのが一般的な日本人の認識であったことがうかがえる。  もう一点、横浜の状況として触れておきたいのがインドシナ難民と中国帰国者である。インドシナ難民とは、75年にベトナム戦争が終結した後にインドシナ3国(ベトナム、ラオス、カンボジア)で新たな政権が樹立したことで迫害を恐れて母国を逃れた人々をいう。国はインドシナ難民の受入れを決め、定住促進センター(※4)を兵庫県姫路市(79年12月)と神奈川県大和市(80年2月)に開設した。大和定住促進センターの入所者は98年に閉所されるまでに2,641人に上った。そして、センターを出た方々を受け入れたのが大和市と横浜市泉区にまたがる県営のいちょう団地だった。  また、81年3月には、厚生省(当時)の招きで中国残留日本人孤児47人が肉親捜しのために初めて来日した。以来、訪日調査が続き、日本に帰国して永住する方も増えていったが、いちょう団地が一つの受け皿となった。その後、家族の呼び寄せなどもあって90年代にかけて外国人の団地入居者は増加していった。そうした中で、いちょう団地の自治会、いちょう小学校(現・飯田北いちょう小学校)、多文化まちづくり工房などの外国人支援団体、泉区役所や泉消防署などの公的機関、これら地域社会のアク ターが、手探りで日本人と外国人がともに暮らすコミュニティづくりの試行錯誤(※5)を始めた。多文化共生の先駆けとして今も注目を集めている。 3 1980年代〜YOKE誕生と国際交流ラウンジの第1号オープン〜  YOKEが横浜市の外郭団体として設立されたのは81年7月。横浜市海外交流協会という名称だった。設立趣意書には、「日本の近代化に貢献してきた横浜の国際性、先進性、開放性という特質を積極的に活用し、(中略)個性と活力に満ちた国際経済・文化都市を創造する」とある。横浜市経済局がYOKEを所管し、海外との文化交流や経済交流を目的とした事業を担った。横浜市の姉妹・友好都市との交流、アジア諸都市とのトレードフェアやビジネスフォーラムなどが代表的な事業であった。ただ設立から間もない時期に今日にもつながる取組の萌芽も見られた。それが横浜市による横浜国際交流ラウンジの開設(86年10月)であり、YOKEの事務所に隣接する一角に第1号がオープンした。このラウンジは、市民が国際交流活動を行う場を提供するもので、在住外国人の相談窓口として情報・相談コーナーが設置された。YOKEがラウンジを管理し、ボランティアグループが運営する形態であった。当初は、急激な円高の影響で経済的に苦しむ外国人留学生から住居に関する相談が多かった。当時、留学生は国の留学生10万人計画(「二十一世紀への留学生政策懇談会」報告83年8月)のもと年々増加していたが、横浜市内の留学生は89年5月で836人と在住外国人の3%にも満たなかった。ラウンジには他に、英語を教えたい外国人と英語で交流を望む日本人からの問合せが多かった。情報・相談コー ナーの相談件数は89年には1,862件に達し、そのうち54%が外国人からの相談だった。国際交流ラウンジは、その後89年11月、緑区に緑国際交流ラウンジ(青葉区が緑区から分区した後に青葉国際交流ラウンジに改称)の開設が続いた。  70年代までは外国人の増加は緩やかで地域の国際化についても市民意識はまだ希薄であった。80年代に入ると国内の好景気の中、労働者不足が顕在化し、アジア諸国との経済格差を背景に外国人の流入 が増し(図1)、不法就労が社会問題化していった。そうした状況が89年の「出入国管理及び難民認定法」の改正につながり、90年代は急増する外国人によって状況が一変する。YOKEもそうした時代の変化に無縁ではいられなくなっていった。 4 1990年代〜外国人の流入拡大と市民活動の拡大〜  90年6月の「出入国管理及び難民認定法の一部を改正する法律」施行により外国人の流入が一気に高まった。ブラジルやペルーなど南米に移住した日本人の子孫(日系三世まで)が就労制限のない在留資格により日本に多数流入した。自動車産業等の集積する静岡、愛知、神奈川などが受け皿となった。横浜市の外国人も90年代の終わりに5万人(10年間に5割強増加)に到達し、ニューカマーを中心とした外国人人口の拡大期を迎えた(図2)。  90年代を通して、横浜市においてブラジル人は3.6倍、ペルー人は2.7倍に急増し、「デカセギ」と揶揄されながら日本人が嫌がる「3K(キツイ、キタナイ、キケ ン)労働」などにも従事し日本経済を支えた。バブル崩壊によって90年代後半からは増加が鈍ったものの、日系人はこの時代の象徴的な存在であった。同時期にフィリピン人も2.6倍、中国人は1.7倍増加した。増加数の最大は中国人の5,700人増であった。中国人は永住者が多数を占めるが、他に留学生、日本人の配偶者や家族滞在なども増加していた。一方、韓国・朝鮮人は次第に横ばいの状態に変わっていった。横浜に在留する外国人の出身は107か国・地域にわたった。  90年代は、市民ボランティアが公益的な活動のアクターとして大きな広がりを見せる時代でもあった。阪神淡路大震災(95年)を契機としたボランティア活動の活発化、特定非営利活動促進法(NPO法)の制定(98年)、そして横浜市市民活動推進条例(00年)が施行されるなど制度整備も進んだ。横浜博覧会(89年)の開催を契機にYOKEに設けられた「横浜国際交流基金」もそうした市民活動をサポートする役割を担い、市民による国際協力活動(途上国での教育支援や農業支援等々)や在住外国人支援 活動などに助成を行った。基金の設置を契機に、YOKEの中に市民活動を支援する中間支援機関としての役割が出てきた。市民ボランティアや行政をはじめとする関係機関と連携・協力して地域の国際化に取り組むという基本スタイルがこの時期に形成されていった。 ■日本語学習支援のはじまり  地域に暮らす外国人の急増に伴い、市民による支援活動として拡大したのが日本語学習支援であった。ユッカの会、NVGほどがや、国際交流Seya、その他多くの市民活動団体が設立されていった。活動を始めたきっかけは、区役所のボランティア養成講座の受講や隣人を助けたいという個人的思いなど様々であった。90年代後半に作成した「日本語ボランティア教室マップ」には50団体が掲載されている。YOKEはボランティアグループと共同で日本語学習の教材を開発してモデル授業「サバイバル日本語教室」(92年−93年)を開いたり、異文化理解講座と日本語教授法を学ぶ「日本語ボランティア研修講座」(93年−95年)を開催するなど市民ボランティアとの連携協働が進んだ。 ■市民通訳ボランティア派遣の制度化  改正入管法の施行(90年)によって流入する外国人も多様化し、中国語、ポルトガル語、スペイン語など様々な外国語を話す外国人住民の行政サービスへのアクセスが課題として浮上してきた。一方、行政側も定住化する外国人住民への円滑な行政サービスの提供が求められた。そこで、外国語に堪能な市民を通訳ボランティアとして登録してもらい、行政の窓口や学校からの依頼に基づいて派遣する制度をYOKEは市と協働して93年に立ち上げ、翌94年から試行的に実施した。豊富な人材に恵まれた横浜の潜在力の高さが発揮されたものと言える。99年までの派遣総数は873件。言語別には中国語、スペイン語、ポルトガル語、英語の4言語で77%を占めた(図3)。派遣先別では、「保健所」、「小中学校」、「福祉事務所」、「保育園」の4か所で82%を占めた。その後も派遣は拡大し、通訳ボランティア制度は外国人住民の生活を支えるインフラの一つとして定着していった。 ■ラウンジ基本構想の策定  91年5月に保土ケ谷区に保土ケ谷区国際交流コーナー(後に「ほどがや国際交流ラウンジ」に改称)、 97年5月に港南区に港南国際交流ラウンジが開設し、ラウンジは市内に4か所となった。この間、96年3月に国際交流ラウンジ基本構想(横浜市国際政策室(当時))がまとめられた。この中でラウンジの目 的は「情報提供、相談や外国人との交流を進めるための国際交流拠点」と位置付けられ、「外国人の支援、外国人と日本人との交流、国際交流ボランティアの支援・育成、情報収集」などが機能として求められた。その担い手は「区役所が地域のボランティアで組織する運営委員会を設置し、運営業務を委託する」という形が示された。ラウンジは国際交流拠点として位置付けられ、在住外国人を支援する役割も明記された。  90年代に入ってYOKEは海外との文化交流・経済交流事業と入れ替わるように在住外国人支援事業の比率を高めていった。名称も99年4月に横浜市国際交流協会に改め、YOKEは大きな転換期を迎 えた。2001年に設立20周年を迎え、ミッションステートメントを策定し、その中で主要テーマとして「多文化社会づくりの促進」、「ボランティア活動・市民活動の活性化」を掲げた。YOKEは、取り巻く環境が変わっていく中、時代の要請に応えるように「海外との交流」から「地域の多文化社会づくり」へと名実ともに役割を転換していった。 5 2000年代〜多文化共生推進の方向の明確化とラウンジとYOKEの連携拡大〜  00年代に入って、リーマンショック(08年)による景気後退をきっかけに、外国人の増加は09年にピークを迎えた。ピークまでの10年間に横浜市の外国人は5割増えた(図4)。特徴的だったのは、中国人が韓国・朝鮮人を上回って横浜の中でもっとも多い外国人となり、10年で2倍を超える増え方を見せたことだった。フィリピン人も5割増えた一方で、90年代に著しい増加をみせたブラジル人やペルー人はほぼ横ばいとなった。在留する外国人の出身は143か国・地域に広がっていた。  こうした中、総務省は、06年3月に「地域における多文化共生推進プラン」を策定し、多文化共生の意義、多文化共生施策の基本的な考え方、そして具体的な施策例を示した。同プランはその後の地域における多文化共生施策を方向づけることになった。一方、横浜市では、先の「ラウンジ基本構想」から 10年を経て、在住外国人の増加と定住化の進展を踏まえて「国際交流ラウンジの設置及び運営に関する指針」(06年4月)を策定した。この中で、「外国人との交流を進めるための拠点」から「外国人市民との共生を図る」拠点へとラウンジの位置付けはバージョンアップが図られた(図5)。 ■国際交流ラウンジとYOKEの連携拡大  00年代はラウンジが次々と開設され市域の拠点整備が進むとともに、YOKEとの連携も拡大していった。00年9月に港北区に港北国際交流ラウンジ、07年9月に金沢区に金沢国際交流ラウンジ、同年11月に都筑区につづき多文化・青少年プラザ、そして08年10月に中区になか国際交流ラウンジ、また、ラウンジの位置付けではないが、07年8月に磯子区に磯子区国際交流コーナーが開設された。01年に市民通訳ボランティア派遣事業はラウンジとの共同実施となり、ラウンジとYOKEの当該事業担当者による連絡会が定期的に開催されるようになった。この後、相談窓口(05年)、翻訳(06年)、日本語(07 年)と、各事業においても情報共有や連携のための連絡会が順次開催されるようになった。また、ラウンジの代表者、ラウンジ設置区の担当者が一堂に会して情報共有、共通課題の検討などを行うラウンジ協議会も設置され(06年)、YOKEがその事務局を担った。ラウンジの設置・運営指針には、「YOKEは各ラウンジのセンター機関として運営団体及び区役所等と連携を図り、各ラウンジが共通に有すべき機能の向上に向け支援を行う」と位置付けられていた。市内の国際交流ラウンジとYOKEが連携・協働しながら多文化共生の取組を展開していくという構図が鮮明になっていった。 ■在住外国人支援の拡大 ▽情報・相談コーナーの強化  04年にYOKEが産業貿易センタービルからパシフィコ横浜の横浜国際協力センターに移転したのを機に、それまでボランティアグループが運営していた情報・相談コーナーをYOKEの一部門として統合し、さらに08年からは、情報・相談コーナーの業務の一部に弁護士や行政書士等専門家と連携した専門相談を組み込んだ。多様化・複雑化する外国人の相談ニーズに対して、相談事業の対応力強化が図られた。09年度の相談実績(図6)をみると、「通訳・翻訳」に関する相談、「日本語学習」、「医療・健康」、「在留手続」、「教育」の上位5項目で相談件数の5割余りを占めた。 ▽市民通訳ボランティア制度 の拡充  94 年に始まった市民通訳ボランティアの派遣も00年代に右肩上がりで件数を伸ばしていった。とりわけ、公立の小中学校への派遣が急増し、過半を占めるようになった(図7)。外国籍や外国にルーツをもつ児童生徒の増加に伴い、その保護者と学校の教員との間の通訳ニーズが増大していた。また、05年からは南区役所と定期的に通訳ボランティアを派遣する契約を個別に結んだ。その後、鶴見区役所とも定期派遣(16年)が始まった。一定の通訳ニーズが見込める場や時期に応じて通訳をあらかじめ配置する仕組みは今後ほかでも展開していけるものと考えている。  また、在住外国人の定住化が進んで生活範囲が広がることでニーズも多様化し、生活保護や子育てに関わる深刻かつ専門的な通訳事例が増加した。こうした状況に対して、08年からは一部の派遣先(区福祉保健センター、療育センター、児童相談所他)を対象に一般通訳から分離し、専門通訳派遣として別に制度設計を行った。専門通訳派遣はその後拡大して一般通訳を超える規模になっていく。 ▽「生活者としての外国人」のための日本語学習支援  地域の外国人に対する日本語学習の場は主にボランティアの日本語教室(※6)によって提供されていたが、YOKEでは05年10月から「ニューカマーのための日本語教室」をスタートさせた。それは公的な機関であるYOKEが果たすべき日本語学習支援の一つのあり方として「横浜に生活者として暮らす、入門・初級レベルの日本語学習者」を対象に、日本語学習の入り口をサポートすることを目的と していた。「生活者としての外国人」からの視点で、生活場面での意思疎通を図れるような日本語を習得するとともに、地域日本語教室等と連携し、地域に外国人を受け入れていくシステムづくりを模索した。  総務省の多文化共生推進プランや横浜市のラウンジ設置・運営指針などが策定され、多文化共生の取組の方向性が明確になる中で、在住外国人の「支援」とともに、地域における「共生」や「つながりづくり」がこれからのテーマとして浮上してきた。地域には国際交流ラウンジが増え、YOKEとも連携が進み、外国人支援の基幹パートである相談窓口や通訳派遣などの「生活インフラ」が整備されていった。量的な整備が進んだ一方で、質的な向上や関係各機関・団体間の連携・協働が一層求められていく時代を迎えることになった。 6 2010年代〜新たな外国人施策と多文化共生のまちづくりの本格化〜  10年代は、リーマンショック後の景気後退、そして11年3月の東日本大震災と引き続く原発事故の影響もあって外国人の人口は年々減少していった。しかし、13年に底を打ち、翌14年からは再び増加 に転じた。横浜では10年代を通して外国人住民は25%増加し、出身も160か国・地域に広がり、19年4月には10万人の大台に達した(図8)。増加をけん引したのがベトナム人(10年から19年にかけて 約4倍増・5,400人増)とネパール人(同 約10倍増・3,300人増)であった。中国人(同 約2割増・6,600人増)を含めた3か国の出身者で増加数のおよそ8割を占めた。一方、ブラジル人やペルー人の微減が続き、ここにきてインド人が目立って増えてきた。緑区の霧が丘にはインドインターナショナルスクールが09年に開校し幼稚園から12年生(中等学校)までの3百人を超える児童生徒が通っている。  19年1月末の時点で、在留資格別外国人数をみると、「永住者」が36%、「家族滞在」が12%、「技術・人文知識・国際業務」(※7)が11%、「留学生」が9%で、これら4つの在留資格で全体のおよそ7割を占めている(※8)。特に「技術・人文知識・国際業務」と「技能実習」の外国人の急増、永住化が進む中国人とフィリピン人、ファミリー世帯が多いネパール人とインド人、技能実習生が目立つベトナム人などが近年の横浜における外国人の特徴である。 ■国の外国人施策の進展  12年に外国人登録法が廃止され、新たな在留制度が施行された。新制度では中長期に在留する外国人は在留カードを取得する一方、日本人同様に市区町村で住民登録を行い住民票が作成されるようになった。また、14年4月から、学校教育法の規則が改められ、公立学校における外国籍や外国にルーツをもつ児童・生徒への日本語指導が特別課程として正規授業に位置付けられた。外国人を日本社会に受け入れていく法的整備が進んでいった。  その後、国は国内の深刻な人手不足を背景に、「骨太の方針2018」(18年6月)(※9)の中で「新たな外国人材の受入れ」を掲げ、外国人就労の拡大方針を示した。新たな在留資格制度(「特定技能」)の創設、留学生の国内就職促進、外国人の受入れ環境整備(多言語での生活相談、日本語教育の充実)などが盛り込まれ、新たな在留資格を通して今後5年間で最大約35万人の受入れ拡大を図るとした。18 年12月には「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」も策定された。また、超党派の国会議員 により検討が進んでいた日本語教育推進基本法が成立した(19年6月)。同法は日本語教育の推進に関し、基本理念をはじめ、国、地方公共団体及び事業主の責務を明らかにし、日本語教育推進に関する施策の基本事項を定めるものであった。 ■横浜市の動向  一方、横浜市は、09年に続き13年に外国人市民意識調査を実施したが、暮らしの満足度は前回より8ポイント以上増えて64%が現在の暮らしに「満足である」と回答している。定住希望に関して「横浜 に住み続けたい」が84%と前回より5ポイント余り増加した。困りごとや心配ごとの第1位は前回同様「日本語の不自由さ」(24.7%)だ。一方、現在日本語を学んでいる人の68.4%が「自分で勉強している」と回答しつつ、日本語を学びたい場として「無料で学べる教室や学校」(46.5%)や「自宅や勤務先から近い教室」(34%)を挙げている。地域活動への参加意欲について、「参加意向がある」は全体として高い数字(71%)を示すが、「参加意向はない」と答えた外国人の中で「永住者」と「特別永住者」の割合が高かった。大地震が起きたときの防災拠点について、ブラジル人、ベトナム人、タイ人、ペルー人などは過半数がそもそも存在を「知らない」と答えている。調査結果を踏まえ、多様な外国人の状況やニーズに対応したきめの細かい施策の必要性が浮き彫りになった。  外国人の増加と定住化が進む横浜市において、新たに「横浜市中期4か年計画2018−2021」が策定され、この中で、市は2030年を展望した横浜の持続的成長・発展を実現するための6つの戦略を立てている。その一つである「未来を創る多様な人づくり」の中では、誰もが自分らしく活躍できる社会の実現 を目指し、「多文化共生の推進」が初めて戦略として掲げられた。YOKEは新たな市の計画を踏まえて「YOKE中期構想2018−2021年度〜だれもが自分らしく活躍できる多文化共生のまち横浜を目指して〜」(※10)を策定した。多文化共生のまちづくり推進においては「多様性が活かされる地域のコミュ ニティづくり」に向けて4つの重点取組を掲げた。 ●重点取組1 外国人の生活基盤支援の充実 ●重点取組2 外国人の地域とのつながり強化 ●重点取組3 外国人の活躍促進 ●重点取組4 外国人材の誘致・定着  少子高齢化と人口減少の社会状況に歯止めが見通せない中、国は外国人材の受入れ拡大へとかじを切り、外国人受入環境整備のメニューも示した。今後、横浜市への外国人流入が加速すると予想され、YOKEは横浜市と密に連携して外国人施策を推進する役割が期待されている。日本人と外国人がともに暮らしやすいまちを目指して本格的に多文化共生のまちづくりに取り組む新たなステージに入った。 ■外国人の生活基盤支援の充実 ▽多文化共生総合相談センターの開設  国が「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」の中で生活者としての外国人に対する支援として真っ先に取り組んだのが、全国に約百か所設ける多文化共生総合相談ワンストップセンター(仮)の整備だ。行政・生活全般の情報提供・相談を多言語で行うもので、横浜市においては、YOKE情報・相談コーナーの機能を拡張する形で「横浜市多文化共生総合相談センター」にリニューアルを図った(19 年8月)。それまで4言語(英語・中国語・スペイン語・日本語)対応だった窓口に韓国語、ベトナム語、ネパール語、インドネシア語、タガログ語、タイ語、ポルトガル語を追加して11言語対応となった。民間企業の通訳サポートを一部活用しながら、4者通話も可能な電話相談、タブレットを介したテレビ会議など機能が拡張した。タブレットは市内の国際交流ラウンジにも配備し、相談センターと結んで多言語相談や専門相談の活用を市域全体に広げていくことが可能となった。  相談実績は09年度(図6)の5,913件から18年度には15%増加して6,802件に達した。ほぼ外国人数の増加率(18%)に見合うが、市内にラウンジをはじめ相談窓口が増設する中で健闘している。「通訳・翻訳」「日本語学習」「医療・健康」など主な相談内容は09年度から変わっていない。近年「出産・育児」と「教育」の相談が増えていて、それは、市民通訳ボランティアの「小中学校」、「福祉保健センター(乳幼児健診他)」、「療育センター」、「保育園」への派遣増加に呼応している。子育て世帯の多い外国人のニーズがかなり明瞭に表れており、今後、就学前から社会的自立に至るまでライフステージに応じた切れ目のない支援が求められる。 ▽日本語学習に関わる環境整備  YOKEでは日本語学習の事業を通して、地域の日本語教室をはじめ行政・団体など多様なアクターとともに外国人の生活基盤の充実と多文化共生のまちづくりを進めてきた。日本語教室を主宰しながら、 11年度から地域日本語教室等への個別訪問相談を行い、教室へのアドバイスや研修講座のお手伝いなどをしている。14年度からは地域子育て支援拠点と協働して就学前の子どもと親に対しての日本語と子育ての両面からアプローチする支援を始めた。そうした中、国は「外国人を日本社会の一員として受け入れていく(社会包摂)ため、日本語能力が十分でない外国人が生活等に必要な日本語能力を身に付けられるよう、(中略)、日本語教育環境を強化するための総合的な体制づくりを推進し、もって、「生活者としての外国人」の日本語学習機会の確保を図る」として「地域日本語教育の総合的な体制づくり推進事業」を打ち出した。この事業スキームを活かして、YOKEは横浜市と連携し、19年度に地域の実態調査を行うとともに、それを踏まえて体制づくりに向けた検討を進めていく。YOKEは、在住外国人が地域社会において安心・安定の生活基盤を築き、社会とのつながりができるように(国がいう「社会包摂」)するためには、日本語教育の強化だけでなく、生活者としての外国人の多様なニーズが満たされ、社会参加が進み、日本語コミュニケーションの様々な場において、相互理解と地域との関わりが生まれるよう取組を進めていきたい。 ■外国人の地域とのつながり強化 外国人の活躍促進  10年代に新設された国際交流ラウンジは、南区のみなみ市民活動・多文化共生ラウンジ(10年10月)、鶴見区の鶴見国際交流ラウンジ(10年12月)、泉区のいずみ多文化共生コーナー(13年2月)で、これで現在の10ラウンジがそろった。このうちYOKEは外国人集住3区といわれる中区・南区・鶴見区のラウンジ運営を担っている。  外国人住民の増加・定住化に伴い、外国人が集住するエリアにおいては地域の共生がリアルなテーマとして浮上してきている。日本人と外国人、隣人同士の融和を図り、活力あるコミュニティの創造につなげていくことが求められている。そのためには地域の多様なアクター(自治会・町内会、学校、区役所、ケアプラザその他の公共施設等々)との連携が不可欠であり、日本人と外国人の相互理解と交流・協働をベースに住民間の関係づくりから地域共生を進めていくことになる。その取組の中で、外国人住民の活躍の場を広げていくことが重要なポイントだ。とりわけ、次世代を担う外国人の若者たちの社会的自立までを視野に入れたサポートを通して、若者たちが地域とつながり地域の活性化に資する活動につなげていきたい。モデルとなる事例がある。泉区のいちょう団地では、地域防災を担う外国人の若者たち(トライ・エンジェルス)の活動がある。また、中区の国際交流ラウンジでは外国人の若者たちのための居場所(レインボースペース)づくりが起点となって地域とも関わりを持った活動が始まっている。  地域の国際交流ラウンジは、外国人住民にとって、困ったことがあれば母語で相談ができ、生活に必要な日本語を学べ、同国人と集い、日本人とも交流ができるなど、生活の拠り所であり居場所でもある身近な存在だ。横浜市における多文化共生推進の拠点としてラウンジの重要性が増す中で、地域ごとの特性や事情に基づくラウンジの自主的な活動を継続しながら、相談等の共通業務についてはサービスの平準化や機能向上が一層求められる。YOKEは、市内10か所のラウンジと緊密に連携し、中間支援機関として必要な役割を果たし、横浜市全体の多文化共生のまちづくりを進めていきたい。 7 おわりに  国の外国人受入拡大施策を契機としながら、多文化共生のまちづくりは1990年代の第1ステージから2020年代の第2ステージへ移ろうとしている。その第1ステージは平成の時代と重なった。そして、今、令和の時代を迎え、第2ステージのとば口に立って、我々は、どのような社会を目指していくのか。  住民の多様性が地域の個性として好感され、同時にまとまりを欠くことなく相互に認め合い・支え合う社会はどうだろう。参考にしたいのがラグビーワールドカップ日本大会の日本代表チーム。多様でありながら一体感もあるチームの姿は示唆を与えてくれる。新しい「チームづくり」の道のりは平たんではないが、未来を見据えて本格的に取り組む時期を迎えている。 ※1 2019年4月末で100,227人。なお、本稿での横浜市の外国人数は2009年までは「横浜市人口のあゆみ」(行政運営調整局総務課総務係2010年3月発行)、それ以降は横浜市統計ポータルサイトによる。 ※2 72年に日中共同声明が調印され(日中国交正常化)、71年に5,603人まで増えた中国人は翌年には5,037人となり、その後も一時期減少する。一方、無国籍が71年の78人から72年に844人と急増した。 ※3 「神奈川の韓国・朝鮮人 自治体現場からの提言」神奈川県自治総合研究センター「国際化に対応した地域社会のあり方」研究チーム(発行:光人社 1984年2月) ※4 (公財)アジア福祉教育財団難民事業本部のHP参照。http://www.rhq.gr.jp/japanese/ profile/outline.htm ※5 YOKEの国際交流情報誌「ヨークピア」(2000年3月1日発行 No.34)の特集「横浜のインドシナ難民は、いま」及び「クーリエ・ジャポン」2016年4月8日付記事「住民国籍10か国以上!難民と共に暮らすことを選んだ日本の「超・多国籍団地」を訪ねて」を参照。https://courrier.jp/news/ archives/48061/ ※6 YOKEのデータベースに掲載された地域の日本語教室の数は90(08年度)、95(11年度)、110(13年度)、131(18年度)と増加している。 ※7 「技術・人文知識・国際業務」:日本の企業等で機械工学の技術者、通訳、デザイナー等の業務に従事する外国人の在留資格をいう。 ※8 在留資格別の数値は市窓口サービス課からのデータ提供をもとに算出。 ※9 「骨太の方針2018」:正式には「経済財政運営と改革の基本方針2018〜少子高齢化の克服による持続的な成長経路の実現〜」 ※10 YOKE中期構想:社会の動向や横浜市の中期計画を踏まえ、18〜21年度にかけてYOKEの基本的方向や重点取組をまとめた。