《5》緑の取組のあゆみ 執筆 北川 知沙 環境創造局政策課 大内 達詩 環境創造局政策課 斎藤 優太 環境創造局みどりアップ推進課 1 はじめに  横浜での緑の取組のはじまりは、今から約150年前、明治3(1870)年の山手公園の開設までさかのぼる。  本稿では、日本初の西洋式公園の設置を起点として「ガーデンシティ横浜」の推進に至るまで、150年間に行ってきた横浜の先進的な緑の取組について振り返る。 2 緑の取組のはじまり @開港と日本初の西洋式公園の誕生  横浜の都市としての歩みは、江戸時代末期、安政6(1859)年に開港し、現在の関内地区に開港場が設けられたことから始まる。貿易が盛んになり開港場が賑わうと、居住環境が悪化し、外国人側から改善要求が高まった。  その中で、慶応2(1866)年、関内の3分の2に近い地域を焼失した大火を契機として、幕府側と外国側とで「第3回地所規則(横浜居留地改造及び競馬場・墓地等約書)」が締結され、現在の関内のまちの原型ともいえる整備計画が取り決められた。規則の実施は明治政府に引き継がれ、山手公園、横浜公園、日本大通り、根岸競馬場(現在の根岸森林公園)といった横浜中心部の骨格をなす公園やオープンスペースが整備された。  これらの西洋式施設は日本に導入された初期の事例で、日本の近代化に大きな影響を与えた。山手公園(写真1)は、明治3(1870)年、横浜居留外国人によって造られた日本初の西洋式公園であり、当時は外国人専用の公園であった。日本の公園史の原点として記念すべき公園であり、当時の景観が色濃く残っていることから公園としては数少ない国の文化財(名勝)に指定されている。横浜公園は、R.H.ブラントンの設計により、明治9(1876)年に開園した西洋式公園である。山手公園と異なり日本人も利用できたことから、彼我公園(彼は外国人、我は日本人を指す)と呼ばれた。また日本大通り(写真2)は、横浜公園と同じくR.H.ブラントンの設計により、明治12(1879)年までに完成した日本初の近代街路である。関東大震災の復興整備を機に植栽されたイチョウ並木は横浜を代表する風景のひとつとなっており、景観重要樹木に指定されている。 A震災や戦争からの復興  横浜港が発展すると、都市化による問題が表出し、計画的なまちづくりが求められるようになった。横浜では大正7(1918)年に市区改正条例が準用され、近代的な都市計画が定められたが、財政難により整備は進まなかった。  そうした中、大正12(1923)年に関東大震災が横浜を襲った。市の復興は「帝都復興計画」に組み込まれ、政府直轄の事業と市の事業とを合わせて取り組むこととなった。計画は財政難により大幅に縮小されるが、政府の事業として山下公園など3公園が整備された。震災復興は計画的なまちづくりのきっかけとなり、多くの公園が誕生することになった。中でも、昭和5(1930)年に開園した山下公園は、震災の瓦礫を埋め立てた上に造られた日本初の臨海公園であった。  関東大震災と前後して、昭和14(1939)年に「東京緑地計画」が定められた。これは日本で最初の広域都市計画と言えるもので、東京を中心に神奈川など周辺地域を含めた環状緑地(グリーンベルト)を計画するなど、先進的な内容であった。一方、昭和12(1937)年に防空法が公布されると、空襲への備えとしての公園や緑地に注目が集まり、昭和16(1941)年の改正では「防空緑地」が定められた。防空緑地とは、空襲の際の避難場所、延焼防止、防空基地のための緑地で、その配置の多くは東京緑地計画を踏襲していた。防空緑地は戦後も緑地として残り、三ツ沢公園など15公園を市が整備した。  終戦後は市街地とともに横浜公園や山下公園なども接収され、将校の住宅などに利用されていた。その後、接収解除が進み、港の見える丘公園や富岡総合公園など新たに公園として整備された場所もある。このように今日の横浜の公園は、第二次世界大戦に大きな影響を受けていると言える。 3 都市の拡大と緑の減少への対応 @急速に進む都市化への対応  戦災復興から高度経済成長期に入ると、横浜は、東京のベッドタウンとして急速に宅地開発と人口増加が進んだ。昭和30年代は、開発等に関する法令が未整備で、住宅開発に伴い必要となる公共施設や公益的施設の整備についての規定がないため、自治体が整備するほかなく、市の財政負担は莫大なものとなり、実際の整備も追いついていなかった。また、当時は路地・原っぱなどの身近な遊び場が次々に失われ、子供が安全に遊べる場所の確保が強く求められていた。  そこで市では、昭和43(1968)年、「横浜市宅地開発要綱」を定め、開発事業者に対して法律の基準以外に必要な公共・公益的施設を整備することを求めた。この取組により、事業者が整備した公園、いわゆる「提供公園」と呼ばれる多くの児童公園(現在の街区公園)が誕生し、子供が安心して遊べる場所の確保が進んだ。なお、宅地開発要綱による指導内容は、平成16(2004)年の「横浜市開発事業の調整等に関する条例」により条例化され、現在もその仕組みは受け継がれている。  また昭和45(1970)年には市街化区域と市街化調整区域に区分する「線引き」を実施し、無秩序な市街化を防止した。横浜市の市街化区域と市街化調整区域は複雑に入り組むとともに、市街化調整区域が小規模に分散しており、身近な自然を市民が享受しやすい環境にあることがうかがえる。 A都市農業の計画的振興  戦後の急速な都市化で農地が減少していく中、市は「計画的都市農業」の確立に向けて動き出した。その先駆けとなった取組が、港北ニュータウンでの「農業専用地区」の指定である。昭和43(1968)年、農地の乱開発を防止し意欲ある農家の育成及び経営の確立を図ることを目的として「港北ニュータウン地域内農業対策要綱」を制定し、昭和44(1969)年に6地区230haの農業専用地区を指定した。農地の集団化により優良農地を保護し、農業振興を図ったこの取組は横浜市独自のものである。  さらに市は昭和46(1971)年に農業施策の基本となる「横浜市農業総合計画」を策定し、都市化のなかでも永続しうる「計画的農業」の概念とそれを実現する農業専用地区制度などについて記した。この計画に基づいて「農業専用地区設定要綱」を制定し、農業専用地区は市域全体に展開していった。 B緑政局の誕生  戦前、横浜市の公園を担当する部署は土木局都市計画課の公園係であった。戦後、建設局公園課を経て昭和37(1962)年に計画局公園課、さらに時代の要請に合わせ組織が拡大し、昭和41(1966)年に計画局公園部となった。  一方、戦前の農業担当部署は産業部農政課で、戦後は経済局を経て昭和34(1959)年に独立し農政局となる。昭和33(1958)年には専門職として造園職と農業職が設けられ、職種別の採用が始まった。  高度経済成長期になり、緑が急速に減少する中、市は公園や緑地とともに農業を大都市の環境形成に欠かせないオープンスペースとして捉え、農政局と計画局公園部を合併し、昭和46(1971)年に「緑政局」とした。緑を総合的に捉えた緑政局の誕生は、当時としては非常に革新的であった。その後、緑政局は民有樹林地の保全や緑化なども含め緑行政を多面的に展開していった。 C緑の環境をつくり育てる条例の制定  緑政局が誕生した昭和46(1971)年には、市が行う緑化対策事業をまとめた「横浜市緑化対策事業基本要綱(その後の緑地保存特別対策要綱)」を制定し「市民の森」などの取組がスタートする。  この取組をより一層進めるために昭和48(1973)年に「緑の環境をつくり育てる条例」を制定した。この条例は当初「緑の環境を守り育てる条例」として検討されていた。しかし、真に条例の目的を達成するためには、「守る」だけでなく「つくる」ことも必要として、条例化された経緯がある。  そうした背景もあり、本条例には条例としては珍しく理念をうたった前文がある。前文では、緑の環境の定義づけ、必要性、緑の環境の当時の置かれている状況とともに横浜を健康的でうるおいといこいのある住み良い都市とするため、それぞれの立場で緑の環境をつくり育てるとしている。  本条例は通称「緑条例」として、公共施設の緑化、地域の緑化、緑地や樹木の保存、市民と行政との協定締結、工場の緑化、宅地造成における緑化、苗木の供給といった、現在も続く市の緑に関する制度の根拠となっている。条例の制定により、湾岸部の工場地帯には多くの企業緑地が生まれ、「京浜の森づくり事業」のように、市民に身近に感じられ、生物多様性保全にも貢献する新たな展開につながった。 D郊外部の緑を残す取組  市は昭和14(1939)年まで6回にわたり市域を拡張する中で、里山景観が残る農村地帯も市域に取り込んできたが、昭和30年代以降の宅地開発で、その緑は急速に失われていった。こうした急激な緑の減少を食い止めるためには、従来の公園整備とは異なるアプローチが必要であった。そこで市は昭和40年代、郊外部の緑の保全策として、国の制度を活用しつつ市独自の緑地保全制度を創設した。  昭和44(1969)年には、市南部の円海山周辺の緑地約100haを、法に基づく「円海山近郊緑地特別保全地区(写真3)」として保全した。また、昭和46(1971)年には「緑地保存特別対策要綱」を制定し、緑地所有者と市の契約により一定期間緑地を保存する「市民の森」と「緑地保存地区」といった市独自の制度を創設した。  所有者が土地を所有したまま保全を図るというこれらの制度は、適用条件の厳しい法制度より柔軟に運用でき、その後の市の緑地保全制度の基盤となっている。山林所有者の大半が農家であったと考えると、早くから農地と緑地を一体的に捉えてきた、緑政局ならではの取組と言える。  一方、農業や公園の施策においても、失われつつある郊外部の風景を残す取組が模索された。昭和62(1987)年に開村した寺家ふるさと村(写真4)や平成4(1992)年に開園した舞岡公園は、かつての横浜の原風景を保全・復元し、地域や市民が主体となって保全と活用に取り組むなど、ふるさとの景観を守る新たな手法と言える。 4 緑豊かなまちを次世代へ @水と緑の基本計画の策定  市の緑の取組を総合的にまとめた最初の計画は、昭和56(1981)年に策定した「緑の保全と創造に関するマスタープラン(緑のマスタープラン)」であった。プランでは、都市化の歪みを矯正し、安全、快適かつ魅力的な都市像を確立するためには、緑の果たすべき役割が重要であるとし、「緑の保全」「公園の整備」「緑の創造」を中心に事業に取り組むこととした。特に、大規模な緑地が残る7地区を「緑の七大拠点」として重点取組地区に位置付けたことは、市のまちづくりに大きな影響を与えた。  緑のマスタープランはその後、平成9(1997)年の「緑の基本計画」を経て、平成18(2006)年には、環境創造局の誕生に合わせ、公園や緑地、農地に加えて河川や下水といった水環境に関する計画である「横浜市水環境計画」「水環境マスタープラン」を統合し、「水と緑の基本計画」となった。流域単位で目標像を定めるなど、横浜の特徴を生かし、より総合的に都市の環境を捉えた施策展開を可能にした。  その後も、従来の「緑の七大拠点」に河川沿いの樹林地・農地が残る3地区を加え、「緑の10大拠点」とするなど、水と緑を一体的に捉えた取組が進んでいった。 A水辺を身近に感じる緑の取組  海と港のイメージが強い横浜ではあるが、実際には水辺は港湾施設や工業用地で占められ、かつて市民が水辺を感じることができたのは山下公園程度であった。  みなとみらい21地区の開発が進んだことにより、内港エリアの水辺は日本丸メモリアルパーク(昭和60(1985)年一部供用開始)などの港湾緑地として開放された。その後も明治期の貨物線の一部を生かした汽車道や、明治大正期の保税倉庫の再生に合わせて整備した赤レンガパークなど、内港エリアの水辺には個性的な空間が誕生した。  郊外部においては、身近な水辺である河川等で、生物多様性や景観に配慮した取組を進めた。いたち川(栄区)では、改修により平らになった川底の一部を掘り下げ、川の自然復元を図る取組を行った。緑豊かないたち川は、今では栄区のシンボルとして親しまれている。河川だけでなく周囲の樹林地を保全するなど、まち、緑、生き物等と一体となった「多自然川づくり」の取組は、連続性のある水辺空間の創出につながった。また江川(都筑区)では、都市化の進展に伴い生活排水の流入とゴミの不法投棄によって水質汚濁が進んでいたところを、隣接する都筑水再生センターの処理水を導水し江川せせらぎ緑道(写真5)として整備を行い、水辺の賑わい創出に大きく貢献した。 B横浜みどりアップ計画の策定  市が緑に関する様々な施策を行う中、なおも減り続ける緑に対し、その減少に歯止めをかけ、「緑豊かなまち横浜」を次世代に引き継ぐため、平成21(2009)年にそれまでの取組を強化した5か年計画、「横浜みどりアップ計画(新規・拡充施策)」を策定した。計画は「樹林地を守る」「農地を守る」「緑をつくる」の3つの分野からなり、緑地保全制度を活用した樹林地の保全や、森の維持管理、水田の保全や農園の開設、地域での緑の創出などの取組が盛り込まれた。計画の最大の特徴と言えるのが、施策を継続して実施していくための安定的な財源として、「横浜みどり税」を導入したことである。税の導入に合わせて、計画への評価、提案、市民への情報提供を行う市民参加の組織「横浜みどりアップ計画市民推進会議」も設置された。  この計画が着実な成果を挙げたこと、緑の保全・創造には継続的な取組が必要であることから、成果の出た取組を継続・発展させるとともに、市民が「実感できる」緑の創出などを強化し、「横浜みどりアップ計画(計画期間:平成26−30年度)」を平成26(2014)年に策定した。さらに平成30(2018)年には、計画の理念や目標像、基本的な枠組み、主要な取組を継承しながら、計画期間中の社会変化にも対応した、「横浜みどりアップ計画[2019−2023]」を策定し、新たな5年間に取り組むこととした。  横浜みどりアップ計画は全国的にも類のない取組であり、市民と土地所有者と行政、樹林地と公園と農など垣根を越えて取り組んできた横浜の緑政策のひとつの集大成と言える。 5 ガーデンシティ横浜の推進 @全国都市緑化よこはまフェアの開催  市がこれまで先進的に行ってきた緑の取組の成果をアピールし、「美しい花と緑豊かなまち横浜」を全国に発信する機会となったのが、平成29(2017)年3月25日から6月4日まで開催された「第33回全国都市緑化よこはまフェア」である。全国都市緑化フェアは緑豊かな潤いのある都市づくりに寄与することを目的とし、国土交通省の提唱により昭和58(1983)年から全国の都市で開催されている行事である。  都心臨海部の「みなとガーデン」、郊外部の「里山ガーデン」のメイン会場に加え、18区との連携により全市的に展開した。会期中に市内外から600万人を超える方が訪れ、大変な賑わいを見せた。 Aガーデンネックレス横浜の展開  全国都市緑化よこはまフェアの閉幕後、市では、フェアの成果を一過性で終わらせることなく、これまでの取組とともに、花・緑・農・水のある環境を生かした市民や企業等の参加によるまちづくりや賑わい創出、観光・MICEの取組により、「ガーデンシティ横浜」を推進している。平成30(2018)年10月に策定された「横浜市中期4か年計画2018?2021」においても、「花と緑にあふれる環境先進都市」が戦略の柱となり、市をあげた取組として位置付けられている。  そして、ガーデンシティ横浜の推進に向けたリーディングプロジェクトとして、「ガーデンネックレス横浜」を展開している。花と緑による美しい街並みや公園、自然豊かな里山など、横浜ならではの魅力を発信することで多くの方を横浜に呼び込み、まちの活性化や賑わいの創出につなげる狙いがある。平成30(2018)年には「ガーデンネックレス横浜2018」を開催し、みなとエリアをフェアから続くテーマフラワーである「サクラ」「チューリップ」「バラ」で彩り(写真6)、里山ガーデンでは「里山ガーデンフェスタ」として、約7割が市内産の花苗で埋め尽くされた大花壇で来園者を迎えた。また、各区におけるオープンガーデンの開催や駅前花壇の設置、各地域の公園愛護会による「地域の花いっぱい推進」等の取組により、全市・地域で花と緑による魅力創出が進んだ。  こうした流れを受け、多様な主体との連携によりガーデンネックレス横浜を推進していくため、平成30(2018)年8月に官民の多様な主体が一堂に会した「ガーデンネックレス横浜実行委員会」を設立した。今後も市民や企業等と継続した連携を行い、市全域で花と緑に親しむ機運を高め、「ガーデンシティ横浜」を推進していく。 6 おわりに  150年間の横浜の緑の取組を振り返ると、本市は全国に先駆けて多くの先進的な取組を行ってきたことが分かる。日本で初めての西洋式公園である山手公園の開設、農地を都市の中の貴重なオープンスペースとして早くから位置づけ公園などと一体的に進めた施策展開、横浜みどり税を財源の一部とした「横浜みどりアップ計画」、全国都市緑化よこはまフェアの成果を継承し発展させる「ガーデンシティ横浜」の推進など、社会からの要請や課題に対応しながら、緑や公園を軸に都市の骨格を形作る重要な施策を展開してきた。  さらにこれらの努力の結果は、市民の憩いの場である森や地産地消を支える農地、地域の魅力となるまちなかの緑や花など、大都市でありながら身近な場所に多くの緑があるという横浜の魅力につながっているのである。 参考文献 ・「横浜市水と緑の基本計画」横浜市環境創造局 ・「公園とみどり 横浜の150年」横浜市環境創造局