《2》横浜の発展を支える環境行政の展開〜開港からを振り返る 執筆 野村 宜彦 環境創造局長 1 はじめに  人口減少・超高齢化の進展、人口急増期に集中的に整備した都市インフラの老朽化、経済活動のグローバル化による産業構造の変化や気候変動の加速化など、横浜を取り巻く状況は常に変化し、新たに生じる課題への対応が求められている。  今年度策定した「横浜市中期4か年計画2018?2021」では、直面する様々な課題を乗り越え、都市の持続的な成長・発展を実現するため、2030年を展望した6つの戦略を取りまとめた。この戦略の一つに「花と緑にあふれる環境先進都市」として、環境分野の取組の方向性や具体的な取組を示している。  「環境」は、都市づくりの基礎となる政策の一つであるとともに、世界の先進諸都市が施策の重要な柱としているように、横浜の魅力向上にも欠かせない重要な要素である。  では、現在の横浜で暮らし働く私たちはもちろんのこと、国内外の人や企業から横浜に住みたい、働きたいと思われるために、どのような環境を創出していけばよいのか。また、その目指すべき環境に向けて、環境行政をどのように展開していくのか。複雑・多様化する現代社会において、この答えを導き出すことは難しい課題である。  横浜の環境への取組は、環境モデル都市、環境未来都市、そして昨年からSDGs未来都市として政府から選定されているように、国内外から高い評価を受けている。これは、先人たちが、より良い環境の保全・創造を目指して、その時代時代での様々な社会背景の中で解決策を導き出し、取組を進めてきた結果である。  この資産を10年先、20年先にどのように継承し、発展させていくか。本稿では、これまで展開してきた環境行政について、開港から現在の大都市横浜に至る時代背景も含めて紐解いていくことで、これ からの環境行政が進むべき方向性やその中での緑の役割についても考えてみたい。 2 横浜開港による近代化 @西洋文明の見える化  1858年に日米修好通商条約を締結し、神奈川を含む5港の開港が決定した。幕府は、交通の要衝である東海道神奈川宿(現在の神奈川区神奈川一丁目付近)を避け、対岸の半農半漁であった横浜村一帯(現在の中区関内地区)を開港場とすることを表明し、翌年1859年に開港した。  当時人口482人、戸数101戸の寒村であった横浜は、国内外から人やモノが集まる全国有数の国際港都へと発展していく。  また、世界との玄関口として、我が国初の近代的上下水道や西洋式公園(山手公園)の整備、鉄道の開通、ガス事業の発祥の地となるなど、明治政府が進める西洋文明を採り入れた近代化政策を見える化(具現化)する最前線の拠点であった。  その後も、横浜は日本の発展とともに、その時代を見える化し、発信する役割を果たしてきている。 A市政施行と港湾整備  開港30周年に当たる1889年4月1日に市政施行し、横浜市が誕生した。当初は関内地区を中心とする5.4?で人口は約12万人であった。その後、日清戦争後の貿易額の拡大や欧州・北米・豪州の3大定期航路の開設など、横浜港の発展とともに人口が増加し続け、段階的に横浜港の後背地やその周辺部を市域に編入し、1911年に面積が36.71?まで拡張した。  同時期に横浜港は築港工事に着手し、鉄桟橋(現大さん橋)が1894年に完成した。防波堤、泊地、桟橋など港湾の基本的施設を持つ日本初の近代港湾である。引き続き、更なる発展に向けて第2期工事に着手し、「東洋一」と呼ばれた新港ふ頭が1914年に完成した。現在は歴史と景観を生かした観光施設として多くの観光客で賑わう赤レンガ倉庫も、最新鋭の保税倉庫として同時期に竣工した。 B震災復興  1923年9月1日、M.7.9の大地震が関東地方南部で発生。関東大震災である。当時の横浜市(人口45万人)では、死者2万3千人、行方不明者は3千人を超えた。市街地約10万世帯のうち2万世帯以上が倒壊、地震直後に発生した火災は数時間で市街地を焼き尽くした。  開港以来都市化が進んだ横浜市の中心部は一瞬で瓦礫の山と化し、当時の我が国を代表する貿易窓口としての機能も壊滅した。しかし、驚異的なスピードで復興に向かっていく。この立役者は経済界の中心であった原三渓(※1)である。  原は、震災後まもなくして横浜貿易復興会、横浜復興会の会長に就任した。復興会長就任の際には、「横浜の外形が焼き尽くされたとしても、横浜市の本体は厳然として存在しています。それは市民の精神であり、市民の元気であります。」「横浜は今、一枚の白紙になりました。白紙になった以上、自由に絵は描けるのです。新しい文化を取り入れて、最初の絵を描けばいいのです。」と瓦礫の前で述べ、復興の決意を市民、事業者、行政が共有したのである。あらゆる主体が「協働」して横浜を創り上げていくという思想は、すでにこの時代には確立されていたと思うと大変興味深い。  また、山下公園についても紹介したい。震災の瓦礫処理と災害時の避難場所の確保を目的に、瓦礫を埋め立てて1930年に開園し、1935年には復興のシンボルとして、復興記念横浜大博覧会の会場となった。現在でも、「花と緑にあふれる環境先進都市・横浜」のシンボルとして、全国都市緑化よこはまフェアやガーデンネックレス横浜の中心的な会場となるなど、時代を象徴する場所としての役割を果たしている。 C工業都市への飛躍  1925年に有吉忠一が市長に就任した。復興事業の推進に加えて、生糸貿易に依存していた横浜を本格的な工業都市へ飛躍させるため、「大横浜建設」をスローガンに三大事業(横浜港の拡充、臨海工業地帯の建設、市域拡張)を打ち出した。  この事業は1927年に具体化し、船舶が安全に停泊できる面積拡張のための大防波堤建設や、臨海部への工場地帯建設が進められた。  1936年に完成した生麦・子安沖の市営埋立地は、工場地帯として必要なインフラを完備しており、新興の重化学系の大規模工場の進出が相次いだ。多摩川河口から横浜港へ連なる京浜工場地帯の中核・原型が完成し、横浜は新たな工業都市としての顔を併せ持つようになる。  また、周辺市町村との合併を進め、現在から80年前頃となる1939年には、ほぼ現在と同様な市域となった(図1)。東京・横浜など都市から市域の郊外部への電気鉄道網が発達するとともに、私鉄等の沿線開発により東京や市内臨海部などに向かう通勤者たちの住宅が建ち始め、横浜は住宅都市としての姿も見せ始める。 3 戦災復興と高度経済成長 @接収、そして復興へ  1945年5月29日の朝の大空襲により再び横浜は壊滅的な被害を受けた。横浜大空襲である。1時間8分の間に35万発(2,570トン)の焼夷弾が投下され、中心市街地は山手地区と山下公園周辺を除いてほぼ焼失した。  終戦後、横浜は米軍(連合国軍)による日本占領の軍事拠点となった。港湾と中心部、旧軍の施設などが大規模に接収された横浜市は、財政難に加え1950年の朝鮮戦争により接収解除が更に遅れたため、復興が他の大都市に比べて大きく立ち遅れることになった。  それでも、1952年サンフランシスコ条約の発効前後から、徐々に接収の解除が開始され、次第に横浜は活気を取り戻していく。昭和30年代(1955年〜)に入ると日本経済は高度成長期を迎え、横浜は更なる成長を遂げていくことになる。 A変容する横浜  日本の出入国者の玄関口であった横浜港ではあるが、航空機の発達により1955年頃にはその役割を羽田空港に移していく。一方で我が国の高度成長の核である輸出入を支える代表的な貿易港として、山下ふ頭の拡張など、その機能を強化していった。  臨海部では、大黒や根岸湾などで市営埋立事業が展開され、大手製造企業などが多数進出し、戦前より鶴見・子安地区に形成されていた工業地帯と一体に国内最大の重化学工業地帯として日本の高度経済成長を牽引していくことになる。一方で重油燃料を使用する大工場の進出は公害を発生させ、市政の大問題となっていく。  また、郊外部は東京のベッドタウンとして、丘陵地や農地であった所に、団地に象徴される大規模な住宅など急速な宅地開発などが進み、急激な人口増加を支えていった。 B深刻な成長のひずみ  臨海部の発展や東京のベッドタウン化により、1960〜70年代は市の人口が毎年9万人増、10年間で138万人から224万人まで激増する。このような状況に市街地整備は対応しきれず、道路や下水道、公園などの都市施設整備が十分にないまま無秩序な宅地開発が虫食い状態で拡大し、市域内の緑地や農地は急速に減少していった。  また、臨海部の工場や自動車からの排気ガスによる大気汚染、生活排水などによる水質汚濁などの環境破壊も顕著になるなど、急激な経済成長に伴うひずみが一気に噴出し、市民生活に深刻な影響を及ぼした。 C新しい都市づくり  これまで述べてきたように、横浜は開港して以来、日本の近代化の原動力となり、さらに京浜工業地帯や東京のベッドタウンなどの役割を担い、戦後日本の飛躍的な発展を支えてきた。  しかし、高度成長期の爆発的な人口増加や著しい工業化などが、横浜市という一定の区域内で同時多発的に急速に進行したことで、受け皿としての都市機能の整備が全くできない状態となっていた。しかも、人口の集中もさらなる工業化も避けえない状況でもあった。  当時の市長であった飛鳥田一雄は、ごみ、道路交通、環境破壊(公害)、水資源、公共用地に関する問題を重点的な政策課題と明確にするとともに、5大戦争と宣言した。そして、1965年に策定した「横浜の都市づくりについての将来構想」の中で、「だれでも住みたくなる都市づくり」をとなえ、その実現に向けて、六大事業(※2)を打ち出した。  この六大事業などプロジェクト型の都市の骨格づくりと同時に、法規制などによる開発等のコントロール、都市デザインといった一定の調整・抑制の機能を盛り込むことで、都市空間の高度利用や魅力形成、各種施設の適正配置など、効率的で無駄のない都市づくりを進め、現在の大都市横浜が形成されていくのである。 4 環境行政の展開  高度経済成長は、私たちの暮らしに恩恵をもたらす一方で、身の回りの生活環境や自然環境、さらには私たちの健康にまで大きな影響を及ぼすこととなった。これら様々な課題解決に向けた対応が、今に至る環境行政の原点であるといえる。ここでは、当時の各分野での取組を振り返りながら、今後の展開の方向性についてそれぞれ考えてみたい。 @公害対策・横浜方式  京浜工業地帯では、工場排ガスに含まれるばいじんや硫黄酸化物によって、ぜんそくなど健康被害が増加していた。「四大公害」と呼ばれる社会問題としてもクローズアップされ、住民組織による国や市への陳情も相次いでいた。しかし、公害発生源に対して地方自治体が規制や指導を行う権限を持たないため、横浜独自の方法で対応していくことになる。  住民の健康状況や大気汚染の将来予測などの科学的データを収集し、企業と公害防止に向けた交渉を重ね、1964年に電源開発鰍ニ根岸沖の埋立地に新たに進出する磯子火力発電所について「公害防止協定」を締結した。大企業と対等の立場で取り交わした協定は、法律より厳しい内容であった。計画段階から企業と環境負荷の低減や回避について協議する取組は「横浜方式」と呼ばれ、のちの環境アセスメントの先駆けとなる。  現在では臨海部の企業を中心とした29社と、温暖化対策やビオトープの緑化など、公害防止にとどまらず環境分野全般に渡る自主的な取組を、環境保全協定として締結している。この協定を今後どのような形にしていくべきなのか。この答えは、公害問題の時代でも現在の環境とも異なる、将来のあるべき環境について、企業と行政が想像力を働かせながら、議論を重ねることでしか導くことはできない。より良い環境の創造に向けた、企業と行政の新たな関係構築に期待したい。 A下水道整備と環境改善  産業型公害への対応と同時に、社会資本整備の立ち遅れにより、生活排水による水環境の悪化やごみの増大など、都市生活型公害への対応も急務であった。  下水道は、戦災や接収の影響もあり著しく普及が遅れていたが、1963年からの数次にわたる整備計画や、1968年に策定した「横浜市宅地開発要綱」(表1)に基づき、開発事業者に対して必要な下水道施設の建設費負担を求めるなど、様々な手法により整備を進め、下水道の普及拡大を進めた。この結果、市内の河川や東京湾の水質は劇的な改善が図られていった。  また、水再生センターでの下水処理の過程で発生する汚泥を、資源として有効活用するなど、下水道の持つポテンシャルを生かした様々な取組も、下水道の普及拡大とともに展開してきた。特に、北部及び南部地域の2か所に集約した下水汚泥を活用し、発生する消化ガスによるバイオマス発電や、汚泥の燃料化事業は、温室効果ガスの大幅な排出削減につながっている。  下水処理には、大量のエネルギーを消費する。温暖化問題が顕在化する前から、このような取組を実施し、本市の温暖化対策に貢献していることは大いに評価したい。引き続き、水質改善と温室効果ガスの更なる排出抑制の両立に向けた、様々なチャレンジを期待している。 Bごみの減量化  当時のごみ量の増大は、最終処分場の不足を招き、ごみ処理方法の改善が課題となっていった。そこで、圧縮機械車の導入や焼却工場を整備し、大量のごみを運搬する体制や衛生的に減量化する処理体制を築くことで、一定の対応を図ることはできた。しかし、高度経済成長以降も、物質的な豊かさによる大量消費・廃棄や、引き続きの人口増加により、ごみ量は増加し続けたため、最終処分場での計画的な受け入れが厳しい状況となっていた。  そこで、2002年に「G30プラン」を策定し、ごみから資源を分別する政策に転換した。市民・事業者・行政が協働して取組を進め、2010年度のごみ量は2001年度比で43%減、2工場の廃止、最終処分場の延命化と大きな成果を得ている。その後、このG30を礎に3Rの取組へと展開している。  食品ロス削減やプラスチックの排出抑制など、リデュース(発生抑制)の取組が鍵となるが、ライフスタイル・ビジネススタイルの根本的な変革を伴うものでもあり、取組が進みにくい面は否めない。ただし、恵方巻の大量売れ残りや、海洋中のマイクロプラスチックなどが社会問題化している現在は、取組を打ち出す絶好の機会でもあるとも言える。  「夏は夏らしく過ごそう」としてスタートした横浜市役所の軽装の取組が、九都県市共同取組、そして国のクールビズにつながったように、社会システムの変革を促す取組を、まずは身近な市役所から一歩踏み出し、市内外へ発信していくことも、環境行政にとって大切な視点である。 C緑地の保全・創造  都市化の拡大により、山林は無秩序に開発され、公園は不足し、農地は宅地開発の波に追いやられる状況であった。緑の取組の詳細は、本調査季報の各記事に委ねることにして、当時の緑行政の推進において、非常に革新的であったと認識している点について、本稿で述べたい。  それは、緑は市民生活にとってなくてはならない存在であることが、本市行政の根幹に組み込まれていたこと。そして、緑地や公園に加えて、農地も都市の環境形成に欠かせないオープンスペースとするなど、緑を総合的に捉えたことである。  このような考え方が土台にあるからこそ、1970年に実施した市街化区域と市街化調整区域に区分する線引きでは、無秩序な市街化を防止し、身近な緑を市民が享受しやすい環境となるよう、調整区域の割合を高くしたのである。また、樹林地の所有者が、土地を所有したまま保全を図る「市民の森」制度を始め、行政だけでなく、市民や事業者がそれぞれの立場で持てる力を生かして、緑の保全・創造に取り組むことにつながっている。  その後、総合的に緑を捉える視点は、河川や水路などの水空間と緑空間を「水・緑環境」として一体的に捉えるように深化し、地域の方の自主的な美化活動などに支えられながら、せせらぎ緑道や小川アメニティ(※3)などが、市内全域で展開されている。このような変遷を経ながら、現在までのまとまった緑の保全や、豊かな水・緑環境の創出につながっている。  一方で、このような努力をしてきているにもかかわらず、多くの緑の喪失を代償とした都市化の波は、収まる気配がない。この現実を市民・事業者・行政が共有したからこそ、「横浜みどり税」を財源の一部として活用しながら「横浜みどりアップ計画」の推進につながり、山林面積の減少傾向は鈍化している。 D金沢地先埋立事業  計画的都市農業の先駆けとなった港北ニュータウンでの「農業専用地区」の指定など、六大事業は、それぞれ環境の視点を組み込んで事業を推進している。本稿では金沢地先埋立事業を事例として取り上げる。  本事業は、都心部強化事業(みなとみらい21事業)による事業所の転出先や、公害規制の強化により操業が困難となる中小工場の移転先として、環境保全対策を積極的に取り入れた近代的な工場団地や職住接近の住宅地を形成するとともに、移転等の跡地を都市の再開発に活用し、横浜の環境改善と都市機能向上の両立を図ることを目的としていた。  横浜全体の環境を改善する一方で、この事業の推進にあたり、環境面で大きな課題があった。それは自然の海岸線として市域に唯一残っていた金沢地先の海面を、660ha埋め立てる計画(図2)だったからである。横浜の都市づくりの重要性は理解されつつも、東京湾の水質汚濁も顕著となっている中で多くの反発があった。このため、埋立自体を、環境に配慮した提案とする必要があった。  具体的には、旧海岸線の緑地保全や、船溜まり跡を汽水池として野鳥観察や親水空間として生かした長浜公園など大規模公園の整備、さらには、海の公園、八景島、海沿いの水際線緑地など、自然と人とが触れ合える空間を整備した。  1968年に埋立計画が発表されてから50年が過ぎた。現在では、カニやアサリなど多くの生き物が生息し、海の公園での春先の潮干狩りや夏の海水浴を始め、八景島シーパラダイスなど、横浜の海のレクリエーション拠点として、地域一帯が多くの人で賑わいをみせている。  このように、完成までに年月を要し、また環境への影響も大きい大規模プロジェクトは、計画段階での環境配慮がとても重要である。横浜の郊外部に広がる242haもの土地、旧上瀬谷通信施設跡地の活用に当たり、環境配慮の視点をどのように組み込んでいくべきか、次章で述べる。 E環境行政の推進体制  本章では、高度経済成長期以降の環境行政の展開について述べてきた。当時の先進的、革新的な取組を迅速かつ着実に進めるために、様々な組織の強化を行ってきた。一例を挙げると、高度成長期の1971年の組織改編では、衛生局内に設置されていた公害関係の部署を統合し、新たに「公害対策局」を設置することで、公害行政のより一層の強化につなげていった。また、農政局と計画局公園部を合併し、緑を軸にした「緑政局」を設置したことで、総合的な緑行政の展開は加速化し、様々な先進的な施策の実施につながっていった。  その後、地球規模から身近な市民生活に至るまで、複雑・多様化する環境問題に、効率的・効果的な対応を図るため、2005年に緑政局・下水道局・環境保全局(公害対策局を改組)を合併して「環境創造局」は誕生した。横浜の水・緑・土・大気など、環境に係る極めて幅広い分野を総合的・一体的に捉えた環境行政を、現在に至るまで推進してきている。  なお、2008年には、強力なリーダーシップを発揮して温暖化対策を進めるため、環境創造局温暖化対策課を発展改組し、新たに「地球温暖化対策事業本部」を設置した。現在は「温暖化対策統括本部」として、環境モデル都市からSDGs未来都市まで、横浜の先進的な温暖化行政を牽引している。環境行政を強力に推進するためには、それを支えるための組織体制の整備が不可欠である。 5 かげがえのない環境を未来へ  先人たちの街を想う情熱とたゆまぬ努力により、大都市でありながら、公害をはじめとした環境問題を克服し、市民生活の身近な場所に、花や緑、農、水に触れ合える環境が保全・創出されてきた。  近年は、スマートシティをはじめとする先駆的な環境施策にも挑戦し、他都市・地域のモデルとなるような成功事例を国内外へ発信し、世界の脱炭素化へ加速化する中で、横浜の存在感を高めている。  一方で、人口減少・高齢化、社会インフラの老朽化、自然災害リスクの増加、グローバル化による都市間競争の激化、さらにはひっ迫する財政状況をはじめ、これからの横浜はますます厳しい状況となる。  このため、目指すべき将来を多様な主体と共有し、環境を軸として経済・社会的課題の同時解決を目指す取組を進めるなど、環境行政はより一層総合的、横断的に展開していく必要がある。 @これからの緑の役割  前章で取り上げた「市民の森」は、生物多様性の保全やヒートアイランド現象の緩和、雨水の浸透・貯留や地下水のかん養による都市水害の軽減、地域の良好な環境・景観の形成など、緑地そのものが有する機能に加えて、自然に触れ合うレクリエーションや環境教育、森づくりボランティアなど地域活動の場となっている。このように、緑は、環境・経済・社会面のニーズそれぞれに対して、その多様な機能や役割を同時に発揮できるのが強みである。  緑には、この特徴を最大限に発揮させて、環境・経済・社会的な課題の同時解決に貢献することが求められている。すなわち、緑の「保全・創造」に加えて、市域に存在する2900haの樹林地や3000haの農地、約2,700か所に設置されている公園それぞれが持つ機能や役割を、総合的なまちづくりの中に「生かす」取組が重要となってくる。  現在、様々な取組が展開されている。公園の取組では、森の新たな楽しみづくりにつながる、樹林地を生かした新たな遊戯施設の整備や、買物困難地域の公園での移動販売の試行など、地域のニーズや社会的な課題解決に向けて、公民連携で取り組んでいる。  また、気候変動の影響による都市型の浸水被害リスクが高まっていることを受けて、これまで行ってきた雨水幹線や雨水調整池等のハード整備による浸水対策に加え、被害を最小化・回避する適応策として、公園や農地、街路樹帯など「グリーンインフラ」を活用した取組を、あらゆる主体と連携し推進している。  健康・医療・福祉、子育て、防災・減災、地域のにぎわい創出、都市の魅力や価値の向上、インフラの維持管理など、社会課題は山積している。これらの解決を図るために、緑の持つ機能や役割を発揮させることは、同時に緑の価値をより高めることにつながり、緑の保全・創造にも寄与していく。様々な主体と連携しながら緑の機能や役割を生かす取組を積極的に展開していく必要がある。 A国際園芸博覧会に向けて  横浜市は、旧上瀬谷通信施設跡地について、農業振興と土地活用による郊外部の新たな活性化拠点に向けた検討を進めるとともに、都市基盤整備を促進するため、「国際園芸博覧会」の2026年開催を目指し、招致活動を開始した。国際的なイベントを招致し、国の予算も活用しながらインフラ等を整備することで、その後の事業展開につなげることを想定している。  限られた財政状況の中で、大規模なプロジェクトを進めるためには、「仕掛け」が必要である。金沢地先埋立事業では、市がドイツのマルク債を発行し、得られた資金で埋立を開始したことで、その後は埋立地の土地の売却金をもって事業の推進につなげていった。みなとみらい21事業では、横浜博覧会の開催を契機に地区内の開発が本格化した。  今回の仕掛けは、「環境主体のプロジェクト」である。博覧会において、環境先進都市の姿を見える化し、地域の知名度やイメージの向上につなげ、その後の土地利用を加速化していく。また、この一連の流れを将来のまちづくりにつなげるとともに、国内外の先導的な都市づくりとして発信していくことも求められている。  2017年3月に開幕し、約2か月間で600万人の方々が来場した全国都市緑化よこはまフェアの成功は、花と緑を愛し、求める、市民そして多くの来街者の声(※4)からも、花と緑によって横浜の魅力がより高まることを改めて実感する機会となった。現在は、この成果を継承し、「ガーデンシティ横浜」として、都心臨海部や郊外部、全市・地域で花と緑による街の魅力創出を推進している。  この花・緑・農・水をいかした「ガーデンシティ横浜」の推進を中核として、温暖化や生物多様性、環境保全、下水道、資源循環、環境活動など、全ての環境分野で培ってきた実績や市民・企業等とのネットワークを総動員して、博覧会の会場に訪れた方々が「花と緑にあふれる環境先進都市」を体感できる内容を創り上げていく必要がある。  環境部局が連携してリーダーシップを発揮し、あらゆる主体を巻き込みながら、市全域で水と緑や環境に親しむ機運を高め、国際園芸博覧会の招致につなげていくことを期待している。 6 おわりに  今回の調査季報の作成に当たっては、緑行政を最前線で支える職員や係長が中心となって執筆等に取り組んだ。これまでの取組を振り返りながら、今後の緑行政の展開について、改めて考える機会になったのではと思う。将来を考える際に、過去の取組を振り返ることは重要である。調査季報22、59、74、82号において、緑施策の課題と対応について述べられているので、参考にしていただきたい。  いつの時代でも、環境問題をはじめ社会の課題に関係する様々な主体同士が、それぞれの主張を闘わせ、一方で連携をしながら、解決に向けた最適解を見つけ出していく。主に調整役となる行政職員は、苦しい思いをすることの方が多いかもしれない。それでも、横浜の緑や環境への熱い思いを胸に、多様な主体との協働や共創により新たな仕組みや価値を創造し、かけがえのない環境を未来へつないでいくことを期待し、末筆としたい。 ※1 原は、中区本牧に建てた私邸の一部を1906年に三渓園として公開した、緑に造詣の深い人物でもあった。 ※2 六大事業  都心部をはじめとした市街地の整備による都市機能の強化、市民生活や市民活動の質の向上、道路や鉄道など都市基盤の整備により、将来の横浜の都市の骨格の形成や広域的な交通ネットワークの構築を進め、自立的な都市構造の構築を目指す、相互関連性を持たせた六つの戦略的プロジェクト。 ※3 下水道局計画課長時代(2004年度)に、砂田川上流(神奈川区菅田町)の水路のせせらぎ緑道化を計画。竣工後に自主的に管理を行う地域の声を反映して整備。当時と変わらない方々によるきめ細やかな管理により、10年を過ぎた現在も、良好な水緑空間が住宅地の中に創出されている。 ※4 全国都市緑化よこはまフェア来場者アンケート結果から ・「よこはまフェアの印象」 大変良い、良い:96.3% ・「花と緑への関心」 フェアを見て関心が高まった:93.4%  大変多くの皆様に花や緑を楽しんでいただけたとともに、フェアの目的である緑化啓発につなげることができた。 主な参考文献 ・財団法人横浜市ふるさと歴史財団編 高村直助監修 『開港150周年記念横浜歴史と文化』 2009年 ・調査季報 4号、19号、28 号、75号、92号、98号、118号、121号、163号、173号 ・横浜の環境 ・公園とみどり 横浜の150年 ・NPO 法人国際留学生協会『向学新聞』 http://ifsa.jp/index.php?Ghara(最終閲覧日2019年3月1日)