調査研究レポート 消防局初任基礎教育における聴覚障害者対応に関する研修についての実践と考察 瀬戸 勇 消防局消防訓練センター管理・研究課 萩原 昌子 健康福祉局課長補佐(障害者更生相談所審査係長) 1 はじめに  横浜市消防局では、新採用職員(以下「初任生」という。)に対して6か月間の初任基礎教育期間を設け、消防職員として必要な知識及び技術の習得、社会人・公務員としての土台づくりを行っている。  初任基礎教育のカリキュラムには「人権啓発」が組み込まれており、平成28年度から消防局職員と聴覚障害のある横浜市職員が共同で「聴覚障害の理解」をテーマに授業を実施している。  特に初任生を対象とした消防活動における聴覚障害者対応に関する研修について、実践を通じた考察を報告する。 2 全国の消防本部における聴覚障害者対応研修の現状 (1)全国の状況について  「消防職員」として最も拠りどころとする法令の一つに消防組織法がある。消防の任務を示した消防組織法第1条に保護の対象として記されている「国民」という単語の意味するところは、年齢、性別、職業、ルーツ、立場の違いにかかわらず、すべての人々である。したがって、消防が保護する対象である「国民」と障害者差別解消法でうたわれる合理的配慮の範囲は同義であることは言うを俟たない。全国的にも、障害者差別解消法を受けた消防庁の対応要領をはじめとして、様々な取組が行われている。  全国消防の情報誌である「消防週間情報」を通じて把握する限りでは、京都市や郡山市をはじめとする全国各地で、手話又は聴覚障害理解に関する研修を行っている消防本部、消防署が増えてきている様子が見られる。本市でも、直近では、平成29年度以降、毎年4件程度局あるいは各消防署で研修を実施している。  本市の消防署における研修の概要としては、「消防業務に必要な手話」、「聴覚障害とは何か」を数時間で学ぶというものがほとんどであるが、「学ぶ」機会、情報取得に課題のある障害に関する問題意識の共有化の機会を設けていることについては意義があると考えている。 (2)現状の課題  一方で、そこで学んだ手話や知識は「いざというときに使えるものか」ということは課題であると考えられる。もちろん、各消防署では、「いざというときに対応できるようにすること」を目的としているが、では、研修を受けた数か月後に現場で聴覚障害者と遭遇した際に、学んだ手話はすぐ出てくるだろうか。手話は一般的な人間の言語習得と同様、繰り返し学習することが必要な「言語」であるから、普段使っていなければ忘れてしまう。研修の機会に学んだ手話は、結果的に「いざというときには出てこない」のである。実際に聴覚障害者と接する機会が最も多いのは救急事案であるが、このとき救急隊員が苦慮することは、コミュニケーションである。ここでいうコミュニケーションは、単なる情報の受伝達だけでなく、傷病者の感情の部分も含めたやりとりをいう。コミュニケーションに苦慮する原因の一 つとして、救急隊員がその場に最適なコミュニケーション手段を選択できないことが考えられる。聴覚障害者の傷病者の中にも手話が得意でなかったり、口形の読み取りができなかったりする場合がある。そのような場合に、救急隊員には、その傷病者がどのようなコミュニケーション手段を知っていて、どの手段を選択するのがよいのかを判断できることが求められる。 3 消防局における聴覚障害者対応研修の経緯  本市消防局は、平成28年度より各消防署でも個別に聴覚障害理解に関する研修を行っているほか、前述のとおり初任基礎教育のカリキュラムに組み込まれている「人権啓発」の授業において、「聴覚障害」をテーマに研修に取り組んでいる。  幅広い人権啓発のテーマの中から特に「聴覚障害」に特化して毎年の研修を継続しているのは、消防職員が情報を伝えることの大切さから情報面での障害のある市民への伝達方法について考える必要があることに気づいたのがきっかけである。また、消防訓練センターや消防局内に手話を学ぶ職員が複数いたこと、聴覚障害職員の中で各種の研修講師を担っている職員がいたことから、平成28年度に試行的に実施したところ、受講生の反応が良く、時期的にも「障害者差別解消法」を踏まえての取組が注目されていたこともあり、継続的にカリキュラムに組み込まれるようになったのである。  これまでの4年間に延べ571人の初任生に対して聴覚障害をテーマとした「人権啓発」研修を実施してきた。実施に当たっては、毎年事前に消防職員と聴覚障害職員との間で綿密な打合せを行っている。 4 消防職員と聴覚障害職員の認識のすり合わせ (1)視点の違いの明確化  消防職員と聴覚障害職員で初めて意見交換をしたときにまず気づいたことは、消防職員に知ってほしいことと、聴覚障害当事者に知ってほしいことに乖離があることであった。具体的には主に次の2点である。 @消防隊員は一刻を争うため、スムーズに通じる人に聞いてしまいがちである一方で、聴覚障害者は、直接本人若しくは家族に聞いてほしい、会話の方法に配慮をしてほしいという意向があり、コミュニケーションに関する乖離が大きいこと。 A消防隊員が救助・救命活動を円滑に進めるために何を聞く必要があるのかを聴覚障害者に知ってほしいと考えている一方で、聴覚障害者は何のために何をされるのかわからない状況にあり、認識に乖離があること。  これらのことから、相互理解の必要性が高いと考えた。 (2)研修目的の整理  消防職員が実際に救助活動等で対象者とコミュニケーションをとる機会は、発災現場よりも救急搬送時の救急車内が圧倒的に多い。そのため、既に各消防署において日々現場に出動する機会を持つ隊員は、実際の救助・救急活動の中でのコミュニケーションに関する具体的な対応方法を学び、行動形成に結び付けることが必要とされる。  一方で初任生の場合は、まだ実際の現場体験がないことから、発災現場や救急搬送時そのもののイメージができていない。そのため、現場隊員と初任生とでは研修の目的を異なるところに置くことで整理した。  初任生には、「現場で出動した際に障害当事者の存在を想定することができるようになる」ことを主眼とし、「なぜ手話が必要かに気づく」、「相手が情報を得られにくい立場であるときの対応方法について、瞬時の判断力を磨くことが必要であることに気づく」ことを目的とした。 5 研修の構成  これまでの4年間の研修は、実際に聴覚障害のある講師による聴覚障害に関する基礎知識の講義とコミュニケーション方法、災害時に困ることなどについての体験型実習による授業とし、構成として主に次の3本立てで行っている。 @ 聴覚障害者はだれだ?  聴覚障害のある職員と消防職員それぞれ複数人に前方に整列してもらい、聴覚障害のある人はどの人かを答えてもらう。ほとんど正解することはなく、「見かけから判断することの難しさ」を知ることができる。 A 聴覚障害に関する全体講義  聴覚障害や手話に関する知識について事前テストを行ったのち、「聞こえていると思われがちな聞こえの状況に関する理解」、「聞こえない人と話すとき、どんな工夫をしたらよいか」を座学で学習し、後段に実施するグループワークで、さらに理解を深める。 B グループワーク @事前に「災害時の聴覚障害者の困っていること」をまとめた動画を視聴してからグループワークに臨んでおり、この動画を通じて消防職員としての心構え等についてディスカッションやロールプレイを行う。最終的には「要救助者の中には聞こえない人のみならずさまざまな障害や事情のある人がいるかもしれないという想像力が大切」という結論に結び付ける。 A手話を学ぶ消防職員自らの経験を織り交ぜ、救助・救急活動で使う手話の実習を行い、身近なものとして吸収しやすくする。  また、消防局では、すべての救急隊及び消防隊等に「コミュニケーションボード」を配置している。このボードには救急活動において質問することの多い項目である「身体のどの部位が痛むか」を示すための人型のイラスト、五十音表などが印刷されている。このようなツールの存在を印象付け、実際の活動でのコミュニケーション方法の一つとして認識してもらうことも狙いとした。 6 研修の効果分析 (1)理解度測定   4年目に当たる令和元年度の研修では、講義前後に同じ設問を用いて理解度の確認を行った。正答率の変化は表1のとおりである。  問1、問2の聴覚障害の理解に関しては講義前から正答率は高く、ほぼ全員が理解していた。近年は高等教育のカリキュラムに人権教育あるいは障害者に関する教育が組み込まれていることによるものと考えられる。  一方で、問3の「コミュニケーション」については、約1割の初任生が誤答していたが、講義後はおおむね理解できている。  問5については、他の設問に比べて正答率が低かったが、これはやや設問がひっかけ問題のようになっていたため回答しにくかったと考えられ、出題については今後の課題である。  問6、問7の社会における聴覚障害と手話に関する問題は、講義前後で回答に大きな差があった。特にパラリンピックに聴覚障害の職員が出場できないことについて知らなかった初任生は9割を占めた。 (2)自ら学ぶ姿勢の喚起  令和元年度初任生140名のうち、研修終了後に手話を学んでみたいと考えていると答えたのは89名で、63・6%の初任生が「手話を学ぶ必要性」を感じている。自らの意思で何らかの形で手話という言語を学ぼうとする場合、それは「付け焼刃」ではなく、真にいざというときに役に立つ能力として発揮されると考える。  なお、実際に手話を学び始めた初任生は各年度とも2名程度おり、彼らによる現場での奏功事例などから、聴覚障害者対応の仕方について消防署内での理解が広がっていくことが期待される。 (3)意識の変化  これまでに聴覚障害のあ る人と接したことのある初任生は少なく、グループワークの前半では聴覚障害のある職員に話しかけることを躊躇する様子もやや見られるが、時間が経つにつれて初任生は自ら積極的にコミュニケーションをとるようになることが多い。筆談、ホワイトボード、身振り手振りなど、思いつく限りの方法で会話を行おうとする姿勢に変化していく。  令和元年度の初任生アンケートの自由回答欄には、「意識が変わった」という意見が多数寄せられた。主なものは、「聴覚障害者が災害時にどのような状況になるのか考えたことがなかった」、「要救助者にはいろいろな特徴を持つ人がいることに気づいた」、「伝わりやすいコミュニケーションが要救助者の不安を取り除くことができる」といった消防活動における気づきから、「音声だけでは伝わらない」、「健聴者と聴覚障害者は見た目で判断することができない」、「自分の当たり前が誰にとっても当たり前ではない」等、日常生活においても必要な気づきを得た初任生も多かった。   初任生を対象とした研修当初の目的である「障害当事者の存在を想定できるようになる」という目的は達成できていると考えられる。 7 おわりに  私たちは、消防職員と聴覚障害当事者という異なる立場から、「まずお互いの立ち位置を知る」ことから始めて研修の構成を考えてきた。  「研修」はあくまで手段であり、一時的に「手話」等を学ぶのみの時間は、「善かれ」という自己充足と、「救う」ことへの使命感が満たされるに過ぎない。  消防職員は、多くの命と向き合う機会を通じ、かつ訓練を重ねて徐々に「消防士」になっていくのであり、初めから「消防士」ではない。  その心の中の人権意識は、入庁するまでのそれぞれの人生で出会ってきた異なる世界で培ってきたものであるが、緊急の現場ではこれまで経験したことのないような相手と対応する可能性も高いことから、より柔軟な意識への変化が求められる。  緊急の現場で命を守るために、伝えたい情報を伝えるにはどのような方法があるのか、「様々なチャンネルを持っておく必要性」を自ら「気づき」、自ら「変わる」という自主的な向上の意識を持つことこそが消防職員に限らず、幅広く行政職員の人材育成には欠かせないものと考える。  このような到達目標を設定した研修の4年間の実践の効果分析から見い出した「聴覚障害の理解」に関する研修の構成は、当事者とともに研修の組み立てから議論した上で、まず「知る」ことを通じて「その先を想像する力を育てる」ことを目的として実施するものである。  これは、職種を問わず、「聴覚障害の理解」及び「合理的配慮の提供」の感覚を養うための有効なシラバスとして成立すると考えられるということをまとめとして、このレポートの報告とする。