《15》座談会/ごみ問題を抱える人への支援を考える〜制度の狭間を埋める支援とは 岸 恵美子 東邦大学看護学部教授 横浜市建築物等における不良な生活環境の解消及び発生の防止に関する審議会副会長 長谷川 俊雄 白梅学園大学子ども学部教授 野末 浩之 うしおだ診療所所長 進行 健康福祉局福祉保健課 ■はじめに〜自己紹介から ─ 今日は、ごみ問題を抱える方たちへの支援、その中でも支援の難しい、制度の狭間にある方たちへの支援のことなどについてお話をいただきたいと思います。  はじめに、自己紹介をお願いしたいと思います。 【長谷川】私は以前は横浜市役所に勤めていました。最初の職場は寿生活館という施設で、そこでまさに制度の狭間の人たちの対応を含め、ソーシャルワーカーとしてのスタートを切りました。その後、福祉事務所の生活保護ワーカーや保健所の精神保健相談員を経験しましたが、その中にはいわゆるごみ屋敷の人も必ずいて、試行錯誤で対応していました。それから横浜市を退職して、精神科のクリニックで思春期青年期問題、家族問題、アディクション問題のワーカーとして5年ほど従事しました。複雑な問題をいくつも抱えた人たちは制度から落ちてしまう。メンタルヘルスの問題から受診をされ、でも狭い意味での治療ではどうにもならず、相談という形で取り組むことを経験させていただきました。その後、現在の白梅学園大学で教鞭をとりながら、10年前に南区で「つながるカフェ」というひきこもりや鬱の若者たちが通える日本で最初の地域活動支援センターの運営を始めました。また、ソーシャルワーカーとして個人相談室も開設しながら、いろいろと取り組んでいるところです。よろしくお願いします。 【野末】私は大学を出て、横浜で精神科医をやりたいと思って戻ってきたのですが、師匠に当たる先生から、「とにかく保健所の仕事をやりなさい」と言われまして、それで、ご縁があって西区で嘱託医をさせてもらいました。まだ指定医取り立ての、地域医療のことは何も分からない医師だったのですが、そこで区のソーシャルワーカーの方が毎月のように私をいろいろなお宅の訪問に連れて行ってくれました。そして、その中にいわゆるごみ屋敷が何軒かあり、「あっ、こういうものなのか」と思ったのが私のイニシャルケースです。そして、すぐには解決しなくても、粘り強く訪問して回っていたソーシャルワーカーの方の姿に私は教えられ、非常に感銘を受けたのを覚えています。その後、2つの区で、メインは鶴見区で臨床をやっていますが、気がついたら地域のニーズに合わせた医療をやっていました。いわゆる多機能型精神科診療所というものですが、外来、アウトリーチ、デイケア、それから関連する社会福祉法人でヘルパー、ケアマネ、精神のグループホーム、認知症のグループホームと、就労移行以外は大体やっている診療所となっています。今回のテーマとの関係では、常にごみ屋敷の方は何件か抱えていますし、いろいろな人と触れ合って来たなと思っています。なかなか手ごわい方のお宅にも行っていますし、いろいろな経験をしましたが、良い方向に向かうことに関われた事例もあれば、厳しい状況の方もいて、日々勉強かなと思っています。今日は、学術的に改めて勉強がし直せるいい機会だなと思って楽しみにしています。よろしくお願いします。 ─ こんなに地域に熱心に出てきてくださる先生はあまりいらっしゃらないと思います。そのようなお話も後ほどお願いします。続いて岸先生、お願いします。 【岸】私は東京都の特別区で16年間保健師として仕事をしていましたが、難しいごみ屋敷の事例に関わる中で、何でこうなってしまうのだろう、どのような背景があるのだろうと、興味が湧いて知りたくなりました。普通に家の中に招き入れてくれて、お茶を出してくれたり、「こたつで暖まれよ」と言ってくれる方もいて、どうしてこの人たちが孤立してしまうのか、何か私に支援できることはないのかと、そんな思いがごみ屋敷に関わり始めたきっかけです。  また、当時、私たち保健師は、担当地区のごみ屋敷を回っていって、それで生活保護のソーシャルワーカーとか、地域で頑張ってくれている医師に、「一緒に行ってください」と頼み込んで行ってもらったりしていました。いろいろな職種の人と関わることは楽しみでもありましたし、どのようにアプローチしていくかということを一緒に考えてチームとして関わることができました。うまくいくケースもうまくいかないケースもありましたが、自分たちがやってきたことを振り返ったり、次の事例に活かしたりといった積み重ねができたことはとても印象に残っています。  また、高齢者虐待にもすごく関心を持っていました。虐待防止法ができる前でしたが、虐待という概念で物事を捉えるということが非常に大事ではないかということで探究していこうと思い、大学の教員になったという次第です。虐待を受けている高齢者が、段々と自分はどうなってもいいんだというふうに思い始め、セルフ・ネグレクトになるという事例を目の当たりにして、虐待とセルフ・ネグレクトはセットで考えていかなければならないと思いましたし、同時に、それとは全く別の状態でセルフ・ネグレクトに陥っている人もいるので、今はセルフ・ネグレクトとか孤立とか孤立死とかということの研究を細々としているところです。実際の事例に向き合うのがすごく好きなのですが、今は直接ではなく、例えば横浜市をはじめ自治体の会議や講演会、研修会などを通して事例に触れ、少しでも現場の感覚に近づくことが今の自分のやりがいにつながっていると思っています。事例の話を関心を持って聞かせていただいていますし、それを糧にして研究的に何か根拠が打ち出せないかと思っているところです。今日は分野の異なる先生方とお話をする機会をいただいて、大変うれしく思っています。セルフ・ネグレクトは誰でもが通る可能性がある道ですので、この方たちを排除しないためにはどういうシステムをつくるといいのかは、公衆衛生・看護学としては大きな課題だと思っています。よろしくお願いします。 ■対応の難しい事例とその背景 ─ 横浜市の状況をみると、支援することで片付けが進んでいく方というのは、ご本人又はご家族の片付ける力が落ちた方が傾向としては多いような気がしています。一方、積極的に持って帰ってくるタイプの方は支援がかなり難しく、ご本人にアプローチしても、「困っていません」、「迷惑をかけていることは分かっている。でも自分で全部やるからいいです」と言われることが往々にしてあります。個人的な要因と社会的な要因の両方があると思いますが、どのようなことがごみ屋敷の背景にあるのでしょうか。 【野末】シンプルに思うのは、やはりある程度ご自分のテリトリー、パーソナルスペースがあって、第三者が立ち入れない場所がある程度ないと、ごみ屋敷にはそもそもなれないんだろうとまずは思っています。個別の事例しか分かりませんが、親の世代ではある程度地域とは関係があった。そこでご本人もそれなりの土地が確保されていて、ある意味歴史のある家でそのような状態が生じている。だから地域もなかなかすぐには手を出せない、異分子みたいにすぐ排除はできない。そう感じながら訪問している事例もありました。 【岸】私は、タイプとしては、まずはごみだと分かっているけれども片付ける力が落ちて片付けられないタイプ。それから私は宝物タイプとか溜め込みタイプと言っていますが、積極的に溜め込んでいたり手放さないタイプ。そして、最初は溜め込んでいたが、高齢になってきて、今はごみが混じっているという中間的なタイプがあると考えています。片付けられないタイプは、高齢であったり、あるいは8050問題(※1)で80代の親がいなくなったことでごみ屋敷になってしまったなどで、認知症や精神障害によって生活の質を保つことが難しい方もいらっしゃいますが、できないところをサポートしていくことで解決に結びつきやすいです。一方、宝物タイプ、溜め込むタイプの方たちは、研究では脳の微細な障害のある方、発達障害の方もいらっしゃる。そうでない方もいらっしゃいますが、溜め込むということに幸福感を感じてしまう。つまり幸福感という報酬があるというところが非常に対応が難しい。報酬があるために、溜め込むのを止めることや手放せと言われることがものすごく苦痛で、分かっていても報酬のほうにいってしまう。解決の糸口としては、一つは野末先生のような専門の先生に見立てをしていただいて、その上で、なぜそのようになったのか、その方に寄り添って理由を一緒に確認する作業、信頼関係をつくる作業がやはり不可欠だろうと思っています。特に人間関係がうまくいかなくてという方は、人に裏切られた体験から容易には人を信頼できないので、信頼関係を築いて支援につないでいくというプロセスを踏んでいく。そこが大変重要だと思っています。 ─ 横浜市もそうですが、どこの自治体でも、対応の難しい事例が残っていきます。 【長谷川】少し切り口は変わるかもしれませんが、その地区で親の代、何代も続くという中でごみ屋敷の状態が生じてというお話がありましたが、親が亡くなるというのは、ごみ屋敷の住人からすると一つの喪失体験です。仕事を失う、友人を失うなどといった喪失体験の中で、生活の中での充足感や幸せを感じられなくなり、面倒な対人関係ではなくて、物というところに執着する。自分の大きな穴を埋める代償行為というのでしょうか。本来であれば人と会話をしながら充足感を持つということだと思いますが。そして、臨床的な経験からですが、近隣の気になっている方々も実は連帯が組めなくて孤立化しており、だからすぐ行政に話を持ち込んでくる。そういう意味では地域コミュニティの問題として、ごみ屋敷の問題は位置付かなくなった。一気に地域の問題ではなくて公的な問題になってしまっているのではないか。そういう流れがあるように思います。やはりごみ屋敷の問題は孤立の問題。それから人生における喪失体験をどのように埋め合わせするのかという、そうした問題が絡み合って起きているのではないかと考えたりしています。 ─ 喪失体験を埋め合わせることにつながるかもしれませんが、先ほど報酬がある、やめることに苦痛があるというお話がありました。そう考えると、薬物やアルコール依存症の対応、取組をごみ屋敷の参考にしていくことも考えられると思いますが、いかがでしょうか。 【岸】保健師をしていたときにアルコール依存症の人の支援に関わっていたのですが、当時は「アルコール依存症は底つきを待て」と主治医から言われていました。そのため、訪問に行って、お酒を飲んでいる場合は支援をしないで、そのまま放っておくことになり、ご本人の具合はどんどん悪くなっていきました。家族に対しても暴言を繰り返すようになって、そうなると家族も見離し、保健師も見離し、本当にこれでいいんだろうかと悩みました。現在はハームリダクション(※2)の考え方というのがすごく参考になると思います。今はアルコール依存症の治療でも、動機づけの面接などでは、お酒を飲んでいてもとにかく来たことを褒めてあげましょうと、あるがままを受け入れるというふうになっていると思います。ごみ屋敷の人も、ごみということを私たちはすぐに問題にしがちなのですが、そこのスタートが間違っているのではないかと思います。ごみを溜めている、汚いという、汚い・キレイっていう価値観ではなく、まずはその人たちを見るということが大切ではないか。私の中では、ごみ、溜め込む、捨てるという言葉はNGワードです。その言葉を発した瞬間、もうその人は「自分のことをごみを溜めている人だと思っているんだ」、「レッテルを貼っている人だ」と思って信頼関係は崩れてしまいます。  また、多頭飼育の方を訪ねたこともありますが、物や動物は自分が手放さない限りそばにいる。安心感があって、何らかの喪失体験があった自分の心の穴を埋めてくれる。それを汚いと言って引き離す、撤去するのは、誰かが信頼関係を築いてから少しずつ物や動物を引き離すということでしたらいいのですが、ある意味暴力にも等しいことではないかと思っています。  ただ一方で、「健康」ということがあります。健康で文化的な最低限度の生活を守っていくというところもありますので、それとどこで折り合いをつけていくのかが支援として大変難しいところです。喪失感というのは、とても大事なキーワードだと思います。そういった喪失感に、まずは寄り添うということが確かに必要だなと思います。 【野末】先生がおっしゃったアディクションの関係で言うと、確かに小児期の逆境的な体験や被虐待体験がセルフ・ネグレクトといった、自分を傷つける行動につながっているというパターンは本当にそのとおりだなと思います。それと今、多頭飼育の話を聞いて、そのような事例は結構たくさんあるなと思いました。私のところでは認知症の初期集中チームも受託していますが、認知症で、いわゆる廃屋にお一人で住んでいて、いろんなごみがそこに集まってくるのですが、猫もいっぱい来るんですね。ご本人は猫たちに愛着があり、自分を守ってくれる存在であって、そこは非常に象徴的だったように思いました。最終的には、福祉、介護分野の方たちが信頼関係をつくって、医療にもつながった事例でしたが、お話を伺っていてなるほどそのとおりだなと思いました。 ■どのような関わりを大事にしたらよいか 【長谷川】その人のごみにフォーカスするのではなくて、その人にフォーカスすることは大事ですね。でも、近隣の方たちはどうしても人ではなくごみにフォーカスを当ててしまいますし、援助職もそうかもしれません。最初からボタンの掛け違いが起きてしまっているということです。このことは、いつか言語化したいと思っていたのですが、「溜めるっていう行為はいけないことなのか?」ということですね。例えば、私たちは老後の生活、年金が足りないから小銭を溜めこんでいるわけです。でも、彼らはそうではなくて物を溜めこんでいる。でも、溜め込むことが与えてくれる満足感や安心感、その人の心情を理解するということは、やはりコミュニティの中では難しいと思います。住民が迷惑がかかっているのを分かった上で心情を理解しろと言っても難しいですが、実は共通点があって、その共通点を相互に理解していくことがすごく抜けているようにも感じます。資本主義経済社会ですので、やっぱり物に頼る。全ての階層が物を手にしないと生きていけませんが、共通点の理解という視点も大事にしないといけないと思います。その人たちを排除するという課題認識ではなく、ソーシャルインクルージョンというか、社会的包接のためには、そうした視点も必要であり、どう啓発して手にしていくのか。まず援助職がそうしていくことが大きなテーマではないかと思います。 【岸】専門職が集まる研修会などでも、「今溜め込んでいるものはなんですか?」と聞いてみると、「フィギュアを溜めています」とか、「きれいな箱を溜めています」と話をしてくれます。溜め込みの人たちも自分の思い出の品物を溜めていたり、あるいは人生の中で自分が認められた証になるようなものを溜めていたりということは同じですが、何が違うのかというと、普通の人は「段ボール3箱までに決めています」とか「本棚1個」というふうに限度を決めていたり、あるいはいざとなったときには、これは捨てられるといった順位が付けられます。溜め込みの人はそれができない。溜め込みの中で愛着をコントロールできるかどうかということですが、溜め込みの人はそれが非常に苦痛であり、報酬とか苦痛とかの度合いがものすごく違うのかなというふうに考えたりしています。ですので、私たちも同じようなことをしていることを住民の方に体験していただいたり、知っていただくことも大事で、そうでないと、「あの人、おかしいんじゃないかしら」、「何かやったら、殴られるかもしれない」というような誤解につながるのかなと思います。  この間、ある自治体から「一緒に話に行ってください」と依頼があって同行しましたが、集合住宅の管理組合の方たちが、「困った人がいて、臭くてしょうがない」、「ねずみが来てしょうがない」と話をしていて、管理組合からその人に注意勧告を既に出しているということでした。でも、「ねずみを見たことがある人はいるんですか?」とか聞くと誰も見たことはない。「どれくらい臭いんですか?」と聞くと、「今はそんなに臭くない」という話でした。それで、「ご本人からするとどんな気持ちでしょうね」とか、「昔はどんなつながりがあったんですか?」と投げかけると、「昔は結構町内の行事に親子で来ていたんだよ」と昔の話を思い出す人がいたり、認知症サポーター養成講座を受けたという人からは、「もしかすると認知症と同じように対応したらうまく行くんですかね」という話が出てくる。住民だけではなかなか気づかないのですが、投げかけると何人かの人は気づいてくださって、最後には、「今回の文書はちょっと強過ぎたですかね」、「もっと柔らかい言葉がよかったですね」、「いろいろ勉強になりました」という暖かい雰囲気でその場は終わりました。ですので、そういう状況になったときに、コミュニティにどうやって働きかけて、コミュニティを育てていくのかというところも非常に大事な行政、専門職の役割かなと思います。 ─ コミュニティの関係が希薄になってしまって、ますます孤立化しているということでしょうか。 【岸】以前の出来事や様子を知っているなど、やはり地域の方だからこそ寄り添えたりということもありますし、理解をしていく中で見方も変わっていくのだろうと思います。昔は行政などが仲介しなくても井戸端会議でできていたのかもしれませんが、今はそれがなくなって、だからすぐに病院に入院させろとか、早く行政がごみを運び出せとか、そういう極端な方向になってしまって、コミュニティで解決する力というのが薄れてきてしまっているように思います。 【長谷川】自助・共助・公助とよく言いますが、自助・共助ではない、自治なんだと私は思っています。あるいは自治的な連帯、ある程度の地理的範囲における共生と言ったほうがよいかもしれません。共助と自助、特に自助の方は責任が重いということで、その人が責任をかぶせられてしまうように感じます。ごみ屋敷の問題は、自助・共助・公助という考え方は採用すべきではないと考えています。一人の責任だと全部押し付けられてしまう。今お話のあった協力者、井戸端会議の必要性というのは、まさに自治であって、象徴的なものだと思います。 【野末】以前、区の嘱託医をしていたときに、近隣に対して罵声を浴びせる方がいるという事例があったのですが、地域が理解をしていく中で、お隣さんはかなり被害を受けていましたが、みんなで長い間見守りをして、関わって、大事にならずに折り合いをつけていったという事例もありました。地域の力、自治の力がしっかりしているところはいろんな形で予防できているのかもしれないなと、お話を伺っていて思いました。 【長谷川】私もある区の会議でスーパーバイザーを行ったときに、区役所の人や援助職だけではなくて地域の民生委員さんとか自治会長も来ていたので、そういった方を批判する側の方ではないかと思ったのですが、民生委員さんが「もっとマイルドに行きましょう」と話をされていてびっくりしました。やはりそういう方がいらっしゃると、地域の方たちに対してもいい意味で教育的な効果を発揮できたり、地域と行政との間のワンクッションとなっていただけたりするのだろうと思います。 【岸】昔はお節介おばさんみたいな人がどこの町内にもいたんですが、今は地域の中でキーになる方が非常に少なくなっていますよね。みんなが各人の価値観の尊重とかプライバシーとかと言う中で、お互いの距離が離れていってしまったように思います。 【長谷川】プライバシーというのは、なんか悩ましいですね。プライバシーという言葉の原義、最初の言葉は確か「放っておいてほしい」という権利です。だからプライバシーを認めれば認めるほど人は孤立化していくことになります。お話のあったお節介というのは、おそらく良い加減のケアです。何かの機会に「大丈夫?」とか、「お茶、飲みにおいで」とかの一言があったら、ごみ屋敷の人もどうなっていたんだろうって思ったりします。 【岸】プライバシーということもありますが、近所の人も1回誘って断られたら、「あの人は拒否する人だから」、「あの人は来ないよ」と言って、1回だめだったらもう関わらないみたいなところもあるように感じます。1回目に参加しなかった人は急速に孤立していく。ご本人も自分から入っていく力が弱まっていて、受援力、助けを求める力と言っていますが、助けを求めることがプライドもあってできなくなっている。何か時代背景とかがあるのでしょうか。 【長谷川】一つには、人に「助けて」と言うことがいけないことだと教わって大人になってきてますからね。学校でも、「長谷川くん、隣の○○ちゃんはあてにしないの。自分で考えるの。一人で考えるの」って言われたりするわけです。自立を求めているのですが、行き過ぎた自立は孤立化する。自分の問題は自分で解決すべきことだと思いますが、本当に根深い問題です。経済社会としての成熟はあるのでしょうが、助け合わない社会、助けてって言ってはいけない社会を私たちの歴史はつくってきたのかなと、大げさですが、そう思ったりもします。 【岸】そうですね。勝ち負けの世の中になってきているので、助けてって言うのは、それは負け組だという気持ちが若い人にはあるのかもしれません。「自分でできます」、「何も困っていません」とその人たちは言います。助けてもらうというか、慈悲を受けるというのは、低く見られる、対等な関係ではなくなるという感覚があるのかもしれません。 【長谷川】だから、この間のラグビーのワールドカップのときにワンチーム=Aあまり好きな言葉ではないのですが、他のプレーヤーのために自分が犠牲になる。これは自立ではありませんが、誰かのためにというところにハマってあんなに人気が出たんじゃないかなと思いました。普段感じていない価値観がふっと出てきて、それもビジュアルで誰かがわざとつぶれながらボールをつなぐというところにすごいあこがれを感じるという社会心理もあったのではないかと思ったりしています。 ■地域の中での医師の役割 ─ 野末先生のところには、様々な患者さんがかなり深刻な状態で受診されることも多いと思いますが、どのようなきっかけで先生のところにつながるのでしょうか。 【野末】やはり最初は行政の嘱託医相談で伺ったりとかが多いです。あとは民生委員の方などから、「困っているんだけど、こういう人はどうしたらいいんでしょう」といった相談もありますし、ご家族のどなたかが介護保険を受けていて、ケアマネジャーの方から相談がくることなどもあります。私のところは一つのところで長くやっていますので、「ごみ屋敷で何か困ったことがあったらあそこの医療機関に」みたいなことがあるのかもしれません。 【岸】地域にごみ屋敷に関わってくれる精神科の医師がいると支援が進みますよね。信頼のおける先生がいらっしゃって、ご本人とお話をして、関係をつくって、それでうまくいっているという事例はすごく多いです。お医者さんから言われたとか、自分の苦しさを理解してくれたということでつながっていく。地域において医師の果たす役割というのはとても大きいと思います。それは、他の専門職にとっても同じです。 【長谷川】医師は大きな役割を持っていますよね。 【野末】そういうことをして、それで医者は成長するんです。 【長谷川】ごみ屋敷の人は、地域の人からすると訳の分からない人かもしれませんが、「医療機関にお連れしました」と言うと、それだけで地域の方たちは安心されます。私の経験では、保健師やソーシャルワーカーやヘルパーが関わっていても、地域の人たちから「素人が何やってるんだ」とよく言われました。保健師やソーシャルワーカーやヘルパーの仕事が地域の方々からよく理解されていないということでもありますが、医師が入ってくれるとやっぱり締まるなという印象です。加えてそれが精神科領域の問題かどうかということの見極めができてくるわけですから、医師が来てくれることは、私たちスタッフにとってとても安心感があります。 【野末】お褒めと同時に頑張らなくてはいけないというお言葉もいただいたように思います。最初にお話をしたように、私は遠藤さんという伝説的なソーシャルワーカーの方に様々なごみ屋敷に連れて行ってもらったことで、医師としてのスタートはかなり良かったと思っています。しばらく前に、国立精神・神経医療研究センター病院の松本俊彦先生とお目にかかる機会がありましたが、先生も神奈川区でずっと嘱託医をやっておられて、随分勉強になったとおっしゃっていました。医師にとって勉強になりますので、是非横浜市の皆さんは医者をいろんなところ、地域にお連れいただきたいと思います。その後に別の立場に行かれても、ごみ屋敷問題に医師がチームの一員として関われるような端緒になるのではないかと思います。 ■支援と措置のバランスについて ─ 条例では、文書による指導から、勧告、命令、行政代執行という流れで、最終的には行政が本人に代わって財産処分を行うという規定を設けています。最終手段として伝家の宝刀を抜くか抜かないかというところでもありますが、支援とこのような措置とのバランスをどうしていくのかは非常に悩ましい問題だと思います。どのようなところがポイントになるでしょうか。 【岸】私は横浜市の会議で、いつも北風と太陽作戦はとても大事だと、順番を間違ってはだめです、北風を先に吹かせないでと言っているのですが、やはり支援と措置のバランスということでは、基本は支援だと思っています。福祉的な視点でその方に寄り添って、健康面などを含めてその方の状況が分かって、できるだけハームリダクションの考え方も活かして、完全に撤去するとか、完全にその生活を止めさせるわけではなくて、ここまで撤去しますよということをご本人に納得してもらいながら行うというのがこの条例の流れ、意義かなと思います。ご本人も苦しい状況であって、勝手に撤去されるのは嫌なのですが、きちんと分かるレベルの説明をしていく。条例とか法律とか制度といった外的な要因でそうなってしまうということで、それでは仕方がないというあきらめが段々とついていく。あきらめのプロセス、指導、勧告、命令、代執行というプロセスに従って自分の気持ちもあきらめていくのですが、ご本人が一人でそれを受け止めるには非常に心が折れてしまう。それで寄り添い支援の人が一緒にそれを受け止めてあげる。条例に従って撤去されることになっても、一緒にそばにいて共感してあげる。でも、そこを追い詰めないで納得してもらうというところは非常に難しいと思っていますので、代執行しても元に戻ってしまうということが今の通説になってきたことは、それは良かったと考えています。どういうプロセスを踏んで代執行していくのかが私はやはり大事だと思っています。伝家の宝刀を最初に振りかざすと、ほとんど失敗するということになってしまいます。条例がなくても、信頼関係を得るとか、ご本人を説得していくとか、折り合いをつけるということはできるだろうと思いますが、やはり溜め込みということなどで説得ができないような場合には、条例でということはあるのではないかと思います。 ─ 支援者としては、そのプロセスを通してご本人と一緒に考えていくということでしょうか。 【岸】あきらめと言っても、その中で人間関係ができたり、地域の人が一緒に片付けてくれるようになったり、助けられるという体験も同時にあるとよいと思います。そうでないと、ただただ奪われたということになってしまいますので、「自分の話を聞いてくれるんだ」とか、「近所の人も心配してくれていたんだ」と、そういう機会になると本当は最もいいですね。ただの代執行ということではなくて、地域を再生するとか、ご本人の生活を再構築する、そういうきっかけになるといいと思います。そうでないと、奪われた、また奪われる、ではもっと溜め込んでおこうと、ガードが固くなるようなことになるのではないでしょうか。 ─ 今までに全国でごみ屋敷に特化した条例を根拠として代執行を行ったのは3都市ありますが、どこも再発しているようです。いろいろ経緯はあると思いますが、すぐに元に戻ってしまう。しかもかなり早いスピードで戻ってしまうように聞いています。 【岸】失敗と言ってはいけないと思いますが、かえって孤立を深めてしまっている面もあるのではと思います。 ─ 代執行という手段を選ばざるを得ないほど、近隣の方々の安心な暮らしや人権を脅かすような状態になっているのであれば、やむを得ないのかもしれないけれども、その場合においても支援のプロセスをきちんと考えてやるべきというところでしょうか。追い詰めないで納得してもらうというのはすごく難しいことですね。 【長谷川】難しいですね。 【野末】代執行が終わると、行政の担当者は一旦離れることになるのでしょうか。 ─ 条例では、代執行をしたとしても支援を続けるということが規定されています。 【野末】そうですよね。伴走してくださる担当者の方はすごくご苦労だと思いますが、支援を続けることは絶対必要です。お話を聞いていて、私も例えば措置入院や医療観察法の方などに地域で関わっていますが、そういうときに、社会復帰調整官が離れても地域の人にうまく引き継げる事例をつくっていかなければいけないなと思っていましたので、非常に似たところがあると思いました。 【長谷川】このテーマについて、私はすぐ生活保護の制度をイメージしました。生活保護は全部措置ですが、生活保護ワーカーが支援をしないで指導ばかりしていたら、その人たちは離れていきます。支援をするから指導が有効に機能し、お互いを理解することにもつながる。それと同じ構造なんだと思いました。支援がないまま指導だけだと、仕方なく従うだけの関係になってしまいますが、ごみ屋敷の条例は支援ありき。その上で、支援の中で自傷他害というセルフ・ネグレクト、命の問題、それから近隣との関係の中で著しい公共の福祉に反する場合。人の幸福追求権といったものに著しく反する、積極的に加害的に侵害するときには、一つは精神医学的な判断基軸と、もう一つは人権の判断基軸というもので慎重に考えて、この二つの基軸に基づいた関わりがここでいう措置になりますが、条例では支援を伴わないとこの措置ができないという構造になっていると理解しています。だから、明確に支援がある。そこに必要であれば措置が行われるということですので、この理解をやはり現場が持つべきなのだろうと思います。研修でも、支援を取っ払ってしまって措置だけを求めるということではない、そうではないんだということを示していく必要があります。私たち社会福祉職、保健師といったある種の専門性を担保している人たちが、まさに自分たちの仕事の基本に立ち返るということが求められてる、そういう条例の内容になっているのではないかとも思っています。 ─ 支援で本来やるんだということを改めてしっかり伝えていく必要があるということですね。 【長谷川】昨年、一昨年と横浜市の職員研修をさせていただいて、アンケートも読ませていただきましたが、やはりどう支援したいかを考えている人が研修に参加しているように感じます。私の話を聞いて、「ふざけんなよ」とか、「何を甘いことを言ってるんだ」とか、「ごみ屋敷の住人の味方なのか」というようなことをアンケートに書く人は参加していません。でも、本当はそういう人に参加していただかないといけないと思います。 【岸】住民向けの勉強会などではそういう人がいらっしゃいますよね。「そんなこと言ったって、もう我慢できないんだよ」みたいな人も混じっているのが普通だと思うんですよね。人間の中にはそういう気持ちもあると思います。それを素直に爆発してもらって、「でも、どうする?」というところに進んでいくのかなと思います。  それから、支援者が疲弊するのは、ごみが片付かないと支援ができてないみたいな感じがあるからだと思いますが、ゴールはごみの片付けではないので、いかに関係がつくれたかとか、いかにその人の状態が良かったか、笑ったとか、楽しみができたとか、そういうところだと思います。どうしてもご近所から苦情が出て、ごみが片付かないと「何にもしていない」、「今日も何も変わってないじゃないか」と言われたりすることもあると思いますが、ゴールはそのようなことであると考えています。 【野末】気持ちを包み隠さずに、その場で言う人のほうが実は行動がちょっと変わるということが多いのではないでしょうか。全く違う事例で恐縮ですが、私はソーシャルスキルズトレーニング(※3)の講師を時々していますが、家族会で行うと、息子さん、娘さんに厳しめのお父さんがいて、「先生、そんな甘いことをやってたって、うちの子には無理…」と時々噛みつかれて、「すみません」みたいなことがあるんですが、あとで聞くと、「うちのお父さん、ちょっと優しくなった」といった話をされることが結構あります。やはり思っていることを言って、こちらが頭から否定しないで、「そういう見方もありますね」って受け止めると、「それじゃあ、ちょっと自分もそれを取り入れようか」みたいなことがあるかもしれません。いろんな人の価値観を自分のことも含めて受け止めてもらえると、他の人の意見も聞けるようになるのかなと思いました。 ─ 行政も苦情が来ると、地域の住民の代弁者みたいな形になって、本人のところに苦情が来てますよみたいな感じになりがちかもしれませんが、そうではなくて、地域の方たち、地域をほぐすというような役割で対応していくことも必要なのかもしれません。 【岸】私たちは、地域の方々にその方をサポートしてくださいと誘導するわけにはいかないですし、大変な近所の方にも共感しないといけないですよね。それがないと次には進めません。 ─ ご本人への支援と、近隣の方への支援の両方をしていくということですね。 【岸】そうですね。近隣の方を支援することは、ご本人を支援するということにもつながっていきます。また、近隣の話を聞くことは、行政が自分たちのことを見ていてくれているという信頼にもつながります。さらに、どんな人の話も聞く。それで否定もどちらの味方をするでもなく、中立のスタンスを貫く。難しいですが大事なことだと思います。  少し話は変わりますが、高齢者虐待防止法では、養護者を支援するという趣旨があります。「高齢者虐待の防止、高齢者の養護者に対する支援等に関する法律」となっていて、単に虐待を抑止する、養護者を責めるのではなく、養護者を支援して、養護者がもう少し優しい気持ちで接してあげようかとなるように変えていくという福祉的な法律となっています。辛いからこそそういう行動に出てしまう。孤立や追い詰められているからこそそういう行動に出てしまうので、そこを防ぐために支援を行う。先ほどお話があったように、支援がまずありきというのはすごく大事だと思います。 ■最後に〜制度の狭間に落ちてしまう人の支援に向けて ─ 最後に、ごみ問題を抱える人を含め、制度があるから救われるということばかりではない、制度の狭間に落ちてしまう人への支援について、必要なことは端的に言うとこれだ、ということがありましたら、一言ずついただきたいと思います。 【野末】私は簡単です。あきらめない=B全ての行政区ではできないですけれども、自分が関わっているクリニックの守備範囲の地域で、自分が元気なうちは、あるいはスタッフが関われるうちは、年単位になりますが、我々があきらめてしまうと本当にこういう人たちは見えなくなってしまう。それこそ孤独死であったり事件化してしまうように思います。どういう形であっても、最後の窓口を何とか残しつつ、それが数か月後か数年後かは分かりませんが、本当に命をつないでいくような支援をして、何かのチャンスを待つみたいなことをしたいと考えています。とにかく、あきらめないでいたいなと思います。ちょっと後ろ向きな感じですけど、それしかないと考えています。 【長谷川】制度の狭間に落ちてしまうということですが、日本では、そういうこと、そういう人を前提に制度がつくられてるわけです。例えば、スウェーデンは社会サービス法、デンマークは生活支援法、日本は高齢者、障害者、全部制度の狭間が必ずできるような制度構成になっていますよね。でも、スウェーデンやデンマークは困っていることのカテゴライズは必要でなく、困っていればすぐ支援の対象になります。一方、日本は新たに発達障害者支援法をつくり、DV支援法をつくり、でもまた狭間が生まれるという制度設計の国だと思います。これだけだと、ちょっと夢も希望もないのですが、私は今、野末先生があきらめない≠ニ言われたので、私もそういうやさしい言葉で語りたいなと思ったのですが、私はつなぐ≠ニ埋める≠ナすね。制度がなければ人的資源でつないで埋めるということを努力する。それを蓄積することによって、おそらく制度上の狭間が埋まってくる。新たな制度が生まれてくることもある。そういう意味では、住民も援助職も一人で取り組まない。つなぐ≠ニ埋める≠アとでアイデアを出し、知恵を出し合い、取り組んでいけるかということにかかっていると思います。そして、援助職や専門職の本領を発揮できることだとも言えるのではないかと考えています。決してネガティブには捉えていません。 【岸】先生方にいい言葉を言われてしまったので、もうほとんど残ってないのですが、私は今、研修の最後に、手を差し伸べる≠ニいうことを言っています。行政が手を差し伸べる=A行政は申請主義というスタンスをずっととってきましたが、それでは救えないので手を差し伸べる=B手を差し伸べてもセルフ・ネグレクトなどで必ずしも手を掴まないかもしれないですけれども、先生がおっしゃったように、あきらめないで差し伸べ続けると、いつか掴んでくれるんではないかと。どうせ掴まないから手を差し伸べなくていいやというふうには絶対思わないでくださいねということです。「握れよ」と強制はできないですが、手を差し伸べる≠アとを行ってくださいと言っています。 ─ 本日はいろいろと勉強させていただきました。ありがとうございました。 ※1 8050問題  80代の親が50代の子どもを支えるという問題。背景には親の高齢化と子どものひきこもりの長期化があり、介護、生活困窮、社会からの孤立等の問題が生じるとされる。 ※2 ハームリダクション  その人の悪影響をもたらす行動習慣をやめさせることを目的とせず、本人の苦しいこと、困っていることを一緒に考え、健康・社会等への悪影響を減少させようとする支援の考え方、実践 ※3 ソーシャルスキルズトレーニング  社会生活技能訓練。カリフォルニア大学ロサンゼルス校の医学部精神科教授のロバート・ポール・リバーマン氏が考案した心理社会的療法。困難を抱える状況の総体をソーシャルスキルと呼ばれるコミュニケーション技術の側面からとらえ、そのような技術を向上させることによって困難さを解決しようとする技法