≪3≫横浜市における取組 <1>エビデンスに基づく政策推進に向けた医療ビッグデータの活用 大山 紘平 医療局医療政策課担当係長 1 はじめに (1) 前提となる社会状況  世界でも類をみない日本の人口減少、超高齢社会は今後100年続く推計であり、この社会転換は、あらゆる分野に影響すると考えられるが、医療政策の観点でとらえると、わずか7年後には、一つの大きなマイルストーンを迎える。最近では固有名詞として浸透し始めている、いわゆる2025年問題である。2025年には団塊の世代(1947(昭和22)年〜49(昭和24)年生まれを指す)が全て後期高齢者(75歳以上)となり、およそ5人に1人が75歳以上となる。医療需要の多くを占める後期高齢者が増えることで医療提供体制が立ち行かなくなる可能性があるとして、この2025年問題があげられている。  特に基礎自治体として巨大な人口を抱える本市における予測される入院医療需要の伸び率(図1)は全国的にもトップクラスであり、それに備える政策を立案・推進していくことが急務である。 (2) 医療政策へのビッグデータ活用がなぜ必要なのか  このような将来に対応するべく神奈川県地域医療構想やよこはま保健医療プラン2018といった計画に基づき、具体的施策に取り組んでいくところであるが、財源にも医療資源にも限りがある中、優先順位を含めた適切な政策の検討に必要なデータが不足していることが問題意識の出発点である。  というのも、国や県が公表するデータは都道府県や二次医療圏(注1)といった集計単位、あるいは目的が絞られて加工された数値など、粒度の粗い集計表がほとんどである。本来であれば、政策検討のための仮説と比較・検証しながら、分析を掘り下げたり、見る角度を変えたりしたいところだが、公表データではそれができないのである。そのため、これまではアンケート調査などの標本調査を独自に行い、そこから類推した結果をもとに政策を立案することが主流であった。  しかしながら、ドラスティックな社会転換の過渡期である現在、アンケート調査といった標本調査に加えて、全数調査をも上回る実態に基づくビッグデータを多面的に分析することから導き出される結果は重要であると考える。実際、医学研究や製薬業界等においては、臨床現場の全数データが蓄積されるビッグデータをRWD(RealWorld Data)と呼称している。この語彙一つとっても、医療分野がビッグデータの活用に期待していることが浮かび上がってくる。  さらにいえば、人の生死に直結することもある臨床現場においては、客観的なデータに基づき判断することが当たり前ともいえ、政策の立案・推進にあたっても、医療従事者が納得するに足る客観的データに基づく精緻な推計や根拠が不可欠なのである。本稿では、医療局が取り組む医療ビッグデータ活用の柱となる二つの取組の概要と展望を紹介するとともに、他局に先駆けビッグデータを活用したEBPM(Evidence Based PolicyMaking) の実現に必要な環境を整備した中で得られた気付きや考察を、主観も交えつつではあるが論じたい。   2 医療局の取組?〜NDBの活用 (1) NDBとは NDB(National DataBase) は、電子化された医療レセプトデータ(診療報酬請求情報)、特定健診・特定保健指導情報について匿名化されたデータを全国の保険医療機関から収集し、国が一元的にデータベース化したものである。全診療の98%超を占める保険診療に対する請求情報の全データが集約され、運用を開始した平成21年度以降蓄積されているデータレコード数は優に100億件を超えている。  このNDBは、平成20年4月に施行された「高齢者の医療の確保に関する法律」に基づき、医療費適正化計画の作成、実施及び評価のための調査や分析などに用いることを目的に構築されたデータベースであるが、より有効な活用のため、国の行政機関や都道府県、一部の研究機関に限り研究目的で利用が認められていた。当初は市区町村(基礎自治体)の利用は認められていなかったが、平成28年6月に「レセプト情報・特定健診等情報の提供に関するガイドライン」(以降、「ガイドライン」という。)が改正されたことに伴い、市区町村(基礎自治体)の利用も新たに認められた。    NDBの利用には、厳密なセキュリティ対策等を講じることが求められている。具体的にはセキュリティや運用に関する規定の整備、施錠可能で入室管理ができる区画や専用端末の設置等のガイドラインに規定される条件を全て満たしたうえで、国が運営する「レセプト情報等の提供に関する有識者会議」で事前に承諾されなければ、データは提供されない。  中でも集計前の匿名化されたレセプトデータをローデータとして利用する「特別抽出」は最も厳格な運用が求められ、分析目的や手法、必要とするレセプトデータ範囲の妥当性が厳しく審査される。今回は、「横浜市域のがんに関する医療実態の把握」をテーマとして、関連する項目に絞ることで、基礎自治体としては初めて、「特別抽出」の承諾を得ることができた。   (2) 横浜市立大学との連携  大量のデータの分析作業には、相応の分析スキルが必要である。また、データから導き出される結果を、レセプトデータの特性を踏まえつつ臨床的観点から妥当性を検証するためには医学的な知識も必要であり市の職員だけでは困難であるため、横浜市立大学と連携協定を締結し、臨床統計学教室の協力を得ながら分析を進めている。  分析の結果は本年中に公表する予定であるが、さらに、「特別抽出」ではない「集計表形式」による抽出として「横浜市域の在宅医療の実態把握」に関するデータの提供も国から受けており、こちらも年内に何らかの成果につなげたいと考えている。 (3) NDB活用の利点と課題  NDBの最大ともいえるメリットは、全国のデータが一元化されているため都市間比較などが可能なことであろう。このようなメリットを生かして、どのような研究テーマが最も医療政策の検討に有効かを熟慮したうえで、30年度中に新たに利用の申出を行う予定である。  ただし、NDBはいいことばかりではない。まず、分析テーマや想定するアウトプットに対して国の承諾が事前に必要なため、仮説を立てながら随時分析するといった利用には不向きである。また、提供後2年以内にデータは全て廃棄しないとならないため、コホート研究(注2)のような追跡を要する分析には適さない。更に、匿名化処理されているため、@患者の住所がわからない、A医療機関名・所在地がわからないBNDB以外のデータとの突合ができない、といった制限がある。その他にも、申出から実際に利用できるまでに相当の期間を要することも課題と言える。今回は4月に申出をしてから、承諾されたのが7月、そしてデータが実際に届いたのは翌年の2月と、ほぼ1年かかっている。   3 医療局の取組?〜独自データベース(YoMDB)の整備  NDBの課題を踏まえ、医療局ではタイムリーかつ自在に、職員が直接的に医療レセプトデータを分析し政策検討に用いることができるよう、平成29年度、独自にデータベースを構築した。  YoMDB(Yokohama originalMedical Data Base)はそのデータ分析システムの呼称である。 (1) 分析可能なデータの範囲  横浜市は、保険者として国民健康保険、後期高齢者医療制度、生活保護法に基づく医療扶助のレセプトデータを健康福祉局において取り扱っている。あわせると単年分でも3、000万件以上にのぼるこれらの医療レセプトデータをYoMDB で分析はできる。  いわゆるサラリーマン世帯の多くが加入する協会けんぽをはじめとした被用者保険やその他国保組合等が含まれていないため、横浜市民全員ではないが、この3つの保険者だけで被保険者数はおよそ130万人近く、人口カバー率はおよそ35%となる。医療需要が最も高くなる後期高齢者(75歳以上)に限って言えば、自賠責保険適用などを除けば100%近いため、高齢者の増加による課題への対策がメインである地域医療構想の実現に関連する医療政策の検討には十分である。  医療機関所在地情報がベースとなるため市外に居住する患者情報も含まれるNDBと異なり、一部の扶養者を除き被保険者が横浜市に住民登録がある市民であることがYoMDB の利点である。また、NDBには医療扶助を利用した診療のレセプトデータは含まれていないが、本市のデータベースには含まれている。 (2) 個人情報の取扱 これらの医療レセプトデータは、各医療機関から保険請求を目的として保険者である横浜市に提供されたデータであり、医療政策の検討に利用することは、個人情報の目的外利用となる。そのため、本市条例に基づき、横浜市個人情報保護審議会で予め審議・承認される必要がある。(注3)  今回のような大量のデータを目的外利用のためにデータベース化する事例と類似する取組は、これまで横浜市において無く、初めての審議となったが、無事承認され構築に至ることができた。構築にあたり、医療政策の検討に直接使用しない情報は削除、あるいはデータ単独で容易に個人を識別できないよう加工(識別性低減処理)を行った。例えば、氏名や症状詳記、コメントといったテキスト情報等は統計的な処理に不要なため削除している。また、被保険者番号や公費受給者番号は、個人を特定できないようハッシュ関数を用いて不可逆な数値へと加工している。削除せずハッシュ値へ置き換えるのは、医療機関ごとに毎月発行されるレセプトデータを複数名寄せするためのキーとして用いるためである。(図2)   他自治体や企業によってはこのような識別性低減処理を施した情報を匿名化情報(非個人情報)としているケースもあるが、本市では識別性を低減したうえで、なお、個人情報として取り扱っている。 (3) 事業継続性のための対策 YoMDB を構築するにあたって、特に気を付けていたことがある。それは、ごく一部の特定職員だけが使うシステムとならないようにしたことだ。作りこめば作りこむほど、専門スキルがある職員に依存したシステムとなることがあるが、そうすると将来的な人事異動をきっかけに、誰も使いこなせなくなってしまう。 そのため、YoMDB は「データベースシステムに対する専門的な知識が無くとも、それぞれの事業に必要なデータを、それほど複雑ではない操作により抽出できるユーザーインターフェースを備える」(図3)ことをコンセプトの一つにおいて構築した。その上で、高度で複雑な分析も外部コンサルティングの活用などにより、人事異動があっても、途切れず技術を継承できるよう運用を設計した。 (4) 期待される成果と今後の展開 YoMDB では、急性期、慢性期といった医療機能別の需要推計は勿論、居住区情報により患者の流動性を明らかにすることができる。例えば、疾患別、入院外来別に、居住地域と診療した医療機関、調剤した薬局の地理的な関係性をGIS(GeographicInformation System)を用いて比較することは医療政策の検討に有効なのではないかと考えている。 さらに、医科レセプトと歯科レセプトの組合せにより、周術期の口腔ケア(注4)の実施状況による医療費への影響や、薬の重複・頻回処方の状況把握なども容易に行うことができるようになる。運用開始後、様々な事業でYoMDB を活用することで市の医療提供体制の充実等につなげられると確信している。また、分析結果はできるだけオープンにし、広く活用してもらうことや、分析のアイデアや切り口について、外部有識者の要請などにもこたえていきたい。  YoMDB のコンセプトにはもう一つ、分析対象データを柔軟に発展できるということがある。現段階では、医療レセプトデータの分析だけであるが、つなげられるキーさえあれば、他分野で構造化されているデータと連携することは可能である。医療ビッグデータには、レセプトデータ以外にも、DP C(Diagnosis ProcedureCombination : 診断群分類)データや、多くの臨床学会が収集・分析するNCD(National Clinical Database)といったものもあり、分野を問わず、例えば医療・介護・福祉のデータを横串でつなぐことも可能である。ただし、データを保存・連携するためにはデータ保存容量の確保などの投資は必要であるため、まずは政策検討に有用なものから取り組むべきである。  具体的な取組として、健康福祉局が新たに構築するシステムと連携し医療レセプトデータと介護レセプトデータの一体的な分析を平成30年度中に可能とする予定である。  医療と介護のデータをつなぎ合わせて分析できる環境の実現は、地域包括ケアシステムの構築推進に向けた政策を検討する上では非常に重要な意味を持つと考えている。政府(厚生労働省)においても、健康・医療・介護データを有機的に連結した「保健医療データプラットフォーム」を2020年度(平成32年度)から運用できるよう検討を進めているが、公表資料などから類推するに、匿名化を施したデータを連結することを想定しているようであることから自在な分析は困難であろうと思料する。YoMDB のように、患者住所地も捉えながら自在に医療・介護データの分析が可能なデータベースの構築は全国的にみても先駆的な取組であろう。   4 おわりに (1) 基礎自治体が取り組む意義 市民に身近な行政サービスを提供する基礎自治体だからこそ、様々なデータを保有している。市民のための政策を担う基礎自治体だからこそ、個人情報として第三者提供することなしに活用することができる。政府でも、研究機関でも、広域行政を担う都道府県でもない基礎自治体が直接にデータ分析に取り組むこと、ここにこそ大きな意義があると考える。限られた財源の中、政策の優先順位を整理し、より効果のある政策から取り組むためには、客観的なデータに基づく精緻な将来推計が不可欠であろう。これは、医療分野に限らずどの分野でも言えることではないか。 (2) 横浜市がEBPMを推進するために(考察) 行政上用いるデータの多くは、構造化されており、活用する目的や方法が定まっていれば、適法な個人の取扱の範囲においてデータ分析・活用することは技術的には可能である。ただし、「活用する目的や方法が定まっていれば、適法な個人情報の取扱の範囲において」という部分を満たすことが実は難しい。医療分野では政府のNDBが先行していたため、取組を進める道筋の参考とすることができた。しかし、そのほかの分野で、政策上の課題があり実態を把握したいとしても、どのデータをどう扱えば期待する効果が得られるか、突き詰めて考えを整理できるだろうか。それも、通常業務は行いながら、である。したがって、EBPMを推進するためには、庁内全体のデータ活用をコーディネートする部署が絶対に必要である。さらに言えば、コーディネートだけでは足りず、定量的なノルマをもって、各分野の政策課題の検討に必要なデータを庁内外から調査・発掘する、実行性を伴う専門チームこそが必要であると考える。  次に、自戒の念も込めてあえて言うが、有効なデータを捕捉したとしても、やみくもに分析してもいい結果にはつながらない。データの特性を適切に把握し、何ができて何ができないのか、またそこから導き出される結果が何を意味しているのか、政策上の課題や仮説と照らし合わせながら判断できるスキルを、事業所管課が有することも重要である。つまり、それには職員育成が不可欠ということになるが、広く浅く概念や基礎的な知識を身につけることと、実際に検討を深化するための応用スキルを身に着けることは切り分けて考えるべきであると考える。  個人的には後者の応用スキルが身についている職員が各局(理想は各部)に一人ずつ配置され、データ分析を主業務として担えれば、横浜市のEBPMはブレイクスルーを迎えられるだろう、と考えている。いずれにしても、データを調査・発掘する専門チームの存在と、応用スキルを持つ職員の育成がEBPMのカギと考える。医療局の取組も現時点ではEBPMを可能とする環境を整備したに留まるため、具体的な成果はこれからである。本市EBPMの先鞭として轍をつけながら、2025年に向けたデータ活用とそれに基づく政策立案・推進につなげていきたい。    注1 救急医療や入院等の一般的な医療を提供する体制を整える地域単位として都道府県が設定するもの。平成30年度以降でいうと、神奈川県には9つの二次医療圏がある。  注2 調査時点で、仮説として考えられる要因を持つ集団(曝露群)と持たない集団(非曝露群)を追跡し、両群の疾病の罹患率または死亡率を比較する方法(一般社団法人日本疫学会ホームページより)  注3 横浜市個人情報の保護に関する条例該当部分 第10条第3項3 実施機関は、保有個人情報を第1項第5号(前各号に掲げるもののほか、実施機関が公益上特に必要があると認めるとき。)に掲げる事由により目的外のために実施機関以外のものに提供しようとするときは、あらかじめ、審議会の意見を聴かなければならない。  注4 全身麻酔を必要とする手術等において、周術期(手術前後)の口腔ケアが、肺炎の予防や入院日数の短縮など、手術後の回復に好影響を与えるといわれている。