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たぬきの書いた絵
最終更新日 2018年12月27日
民話「たぬきの書いた絵」
むかし、都岡町の川井には、中原往還と呼ばれる街道が通っていました。
当時、江戸へ通じる主要道路としては東海道があったのですが、中原往還もまた、江戸へつながる街道として、人々に親しまれていたのでした。
この中原往還が下川井にさしかかるところ、今でいうと、保土ケ谷バイパスの下川井のあたりになりますが、両側を畑に囲まれて建つ桜井さんの家に伝わる掛け軸の絵のお話です。
江戸時代、桜井さんの家は「やさし」という屋号で呼ばれ、旗本倉林五郎左衛門配下の名字帯刀を許された下川井村の名主でした。また、倉林の林の1字をいただき、林井と名のるほどでした。
街道の通り道に面したこの家には、日暮れになって、一夜の宿を求める旅人も少なくはなかったということでした。
日がとっぷりと暮れて、あたりがものさびしくなったころ、家の大戸をドンドンたたく物音が聞こえます。
家のあるじは、「また、だれぞ、宿にあぶれた者がこの家のあかりを見つけて、一夜の宿をこうておるな。」と家の者をさしむけました。
すると、戸口の前には、くたびれた衣をまとった旅の僧が夕やみの中にたたずんでいました。すっかりつかれきった様子で、「この家のあたりまで来かかると、日もとっぷりと暮れてしまい、一寸先もわからなくなってしまって難儀いたしております。たいそう、ぶしつけなお願いではござりますが、一夜の宿をお貸し願えませんでしょうか…。雨露をしのぐことができますれば、どこなとけっこうでございますが。」と、ていねいに家人に頼むのでした。
これを知ったこの家のあるじは、「それは、それは、たいそうお困りの様子、どうぞごゆるりとお泊りあそばしますように。」といって、家の中へ招じ入れました。
そこで、くたびれはてた旅の僧を手厚くもてなして夕餉(ゆうげ)の膳を運び、ゆっくりと休むようにいいおいてから、奥の間へと下がりました。
ひと夜が明けて、次の朝がやってきました。あるじは、「昨夜のお方はゆっくりと休むことができたであろうか?」と気にかかり、家人にその様子をうかがってくるようさしむけると、そこにはすでに旅の僧の姿はなく、きちんとたたまれた床の上には、ただ1枚の書き付けと掛け軸が置かれていました。
あるじが、急いでその紙を開いて読むと、「突然の来訪にもかかわらず、快いおもてなしを受け、感謝いたします。あいにくと、志の持ちあわせもございません。1枚の絵をご好意に対するお礼として残していきます。」と書かれてありました。さっそくその掛け軸を広げてみますと、何やら不思議な絵模様が墨痕あざやかに書き上げられていました。何の絵だろうかとよく見ますと、怪物のようでもあり、軸の下方には、獣の足跡にも似せた落款(らっかん)が押されてありました。
これを見た家の者たちは皆驚き、門前まで出て、旅の僧をさがし求めてみましたが、すでにその姿はなく、あたりの朝露の土の中に、かすかにたぬきの足跡らしきものが、ひとつ、ふたつ残っていただけでした。
それからというもの、誰からともなく「旅の僧に化けたたぬきの書いた絵」として、桜井家の掛け軸は、村の人々の評判を呼ぶようになり、うわさがうわさを呼び、広まっていきました。
後日、このうわさが遠く川崎のあたりまでとどきました。すると、川崎のあるところに、やはり、獣の足跡らしき落款の押された書の掛け軸が残されているという、うわさがたちました。
川崎といえば、中原往還の道筋にあたります。そこで人々は、旅の僧に化けたたぬきが、江戸からの道中、街道筋に、書と絵を書き残していったんだろうといううわさ話を伝えていますが、川崎の方の書はなく、残っているのは桜井家にある掛け軸のみなのです。
江戸時代、このように桜井家には、1夜ならずとも、何か月もの食客となった旅人も多くあり、なかには、その名もどこの誰とも知れず、ついのすみかとなってしまった人もいてか、この人々の霊を葬うため、福泉寺の墓地の片隅に、無縁仏として石塔をたて、長く供養しているそうです。
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