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鶴見の歴史

 

~悠久の歴史に育まれた鶴見~

 「ふるさとは遠きにありて思う」だけのものではない。近きにありて,悠久の歴史に育まれた郷土の歴史や,このまちに夢を託した人たちの心にふれた時,生まれ育った鶴見のまちが,よりいっそう身近かに感じられる。郷土の歴史を訪ねるということは,単に知識を広めるだけでなく,古代のロマンやあたたかい“ふるさとの心”に出会うことでもある。 

 

※掲載内容は平成11年3月に発行した冊子『つるみ このまち このひと』から一部を抜粋して紹介しています。この冊子は区民の方々による「つるみ このまち このひと」編集委員会が編集し、「いいまち鶴見運動推進委員会」が発行しました。
  したがって、内容が現在と異なる場合がございますのでご了承ください。

  

古代のロマンを秘めたまち

 鶴見川河口や岸谷の第二京浜国道ぎわなどから約10万年前に生息していたと思われるナウマンゾウの化石が出土している。また,下末吉宝泉寺付近からムカシジカの化石が発見されたと伝えられている。

古代人にも住みよい土地だった

 鶴見にいつごろから人が住み始めたかは正確にはわからないが,発見された遺跡や貝塚などから判断して,縄文時代の早期(約9000年前)にはすでに縄文人たちが住んでいたことが立証されている。

兜塚の入口にある「歴史と緑の散歩道パネル
<兜塚の入口にある「歴史と緑の散歩道パネル>

 そのころの地形は,現在の丘陵地域を除く低地一帯は,全て海(古多摩湾)であった。縄文人たちは,森林におおわれていた丘陵地で動物をとらえたり,近くの海から魚や貝類をとったりして暮らしていた。

 生麦の風早台などの遺跡から,世界的にも最も古いといわれる縄文早期の撚り糸文様の土器が出土している。また,梶山や上末吉,二本木,上の宮,風早台などから,縄文人が生活していたことを伝える貝塚が発見されている。

 縄文時代も中ごろを過ぎると,気候の変動で海退期に移り変わり,海岸線も後退して,ほぼ現在の地形が形成された。荒立貝塚からは,竪穴住居跡や,ほぼ完全な形をした縄文中期(約4500年前)の仰臥屈葬人骨が発見されている。(東京国立博物館収蔵)

 装飾がほどこされ,用途に応じた縄文土器や魚網用の土錐・石錐などが小仙塚(現鶴見高校周辺),荒立,風早台などから出土している。縄文時代の鶴見は,海の幸,山の幸に恵まれ,縄文人にとっても住みよいところであったに違いない。

人面土器や埴輪も出土

 弥生時代(約2000年前)になると,人々は鶴見川流域の肥沃な土地で水田稲作を始めた。日用品として使う土器も,煮炊き用のもの,貯蔵用のもの,盛りつけ用の浅鉢など,用途に応じたさまざまな弥生土器が出土している。特に末吉の上台北遺跡からは全国的にも珍しい人面土器(弥生時代後期)が出土している。

 今から1650年前,大和朝廷が国内を統一したころから,鶴見でも力をもった豪族が現れるようになった。その裏づけが駒岡の瓢箪山古墳(お穴さま),兜塚古墳,諏訪坂古墳である。武具や馬具類,金環・まが玉などの装身具や埴輪などが出土している。諏訪坂公園には,諏訪坂古墳から出土した石棺の一部が保存されている。

平安時代から信仰された子育観音

 奈良・平安時代は,奈良や京都を中心に,天皇を中心とする貴族政治が栄華をきわめた。

 律令制度ができ,鶴見は橘樹郡に属し,大和朝廷へ租・庸・調の税を納め,西国を警備する防人として男子が出兵した。

 金剛寺,天王院,真福寺,東福寺,東漸寺などは,平安時代に創建された寺である。特に,東福寺の子育観音は,堀河天皇が願をかけて3年後に跡継ぎの皇子(後の鳥羽天皇)が誕生したということで,「子生山東福寺」の号と宸筆の額を賜ったと伝えられている。

稲葉晴三さんに聞いた話

「ひょうたん山のお穴さま」

 駒岡4丁目の住宅街の一角にある「瓢箪山遺蹟」と書かれた大きな石碑は,明治時代に大流行した「お穴さま」の遺蹟です。

 明治の末ごろ,京浜電鉄(現京浜急行)の軌道をつくる土をとるために瓢箪山を切り崩していたところ,丘の中腹で2m四方の大きな横穴が発見され,その穴の中から人骨,埴輪,土偶,まが玉,刀剣などがたくさん出てきました。

 駒岡の人たちは穴の入口に格子戸を立て「お穴さま」として祭りました。目の悪いおばあさんが,この山にお祈りしたら目が治ったという話が近郷近在に知れわたり,たくさんの人々がお参りに来るようになりました。

 毎日がお祭りのようににぎわっていました。信者たちがあげた線香があまりにも多かったため,京浜地区の線香の値段が3倍になり,大阪や名古屋のほうの線香まで値上がりしたそうです。お穴さまから立ちのぼる線香の煙は,遠く品川の沖合からも見えたといいます。 線香やだんごが飛ぶように売れるので,農業をそっちのけにして,農家の人たちも次々と沿道にバラックを建て,野菜や果物などのにわか商売を始めた。

瓢箪山遺跡の碑お穴さまには砥石を奉納するとご利益があるといわれました。私の子どものころ,お穴さまの前には線香の煙で煤けた砥石がたくさんありました。

 明治40年ごろ流行り始め,最盛期には鶴見川にはお穴さま詣での人たちを運ぶ蒸気船も運行され,京浜急行の支線を駒岡まで延長しようという計画まであったそうですが,そのうちに熱も冷め,お参りに来る人が少なくなりました。

 明治40年に考古学の権威である帝国大学の坪井博士が調査にきて,土地の豪族の墳墓の跡だと鑑定し,発掘品の重要なものは国立博物館に収蔵されたそうです。

<写真は瓢箪山遺跡の碑>  

 

なぞに包まれた中世

 建久3年(1192)に源頼朝が征夷大将軍となり,鎌倉に幕府を開いた。鎌倉に近い鶴見区域も,幕府とさまざまなかかわりをもつことになる。

鎌倉幕府を支えた鶴見ゆかりの武士

 頼朝は,関東に住む多くの武士団を統合して平氏を滅ぼし,鎌倉幕府を開いた。そのなかには鶴見にゆかりの武士たちも大勢いた。

 たとえば,建久元年(1190),後白河法皇の招きにこたえて,頼朝がはじめて上洛した時に随行した武士のなかに,鴨志田十郎,馬場次郎,寺尾太郎,寺尾三郎太郎など,鶴見区域の地名などに関係すると思われる人々の名がみられる。

 また,承久の乱(1221年後鳥羽上皇が源氏討伐の詔勅を下し,天皇側と源氏が争った事件。政子の力によって源氏が勝利)の戦傷死者のなかに,潮田四郎太郎・潮田六郎・寺尾又太郎・寺尾左衛門尉などの名前が記されている。しかし,いずれも現在の地名との因果関係などは解明されていない。

 このころの鶴見は,「鶴見郷」または「大山郷」と呼ばれていた。鶴見郷は鶴岡八幡宮の社領であった。また,幕府の評定衆の一人秋田城之介安達義景の別荘があった。

 仁治2年(1241),将軍頼経はじめ執権以下500人もの武士が,義景の館(別荘)に出かけ,途中,鶴見神社にも立ち寄った記録が残っている。(別荘は別所の地名と関係があると推測される)

鶴見合戦と鎌倉下の道

馬場の観音堂前から出土した古銭 3代将軍実朝の死後,執権政治を行っていた北条氏の力が衰えてきたころから,後醍醐天皇を中心に北条氏討伐の声があがり,全国的に戦闘が繰り広げられた。途中から天皇方についた足利尊氏が京都の六波羅探題を攻略した。

 元弘3年(1333),上野新田郡で挙兵した新田義貞が鎌倉に攻め入り,北条一族を滅ぼした。その途中,府中の分倍河原や鶴見でも激戦を展開した。金沢貞将の軍を破った鶴見での戦いは「鶴見合戦」と呼ばれている。

 鎌倉時代,戦国の御家人たちが「いざ鎌倉」へ駆けつける時のために,鶴見区域でも「鎌倉下の道」が整備された。上の宮から獅子ケ谷,兜塚を通り,現在の末吉橋の辺りで鶴見川を渡ったと推定されている。

<写真は馬場の観音堂前から出土した古銭>

鶴見にもお城があった!

 中世の鶴見を伝えるものに,室町時代初期の建武元年(1334)につくられたといわれる「松蔭寺古図」や,戦国時代の武将・諏訪三河守が築いたといわれる寺尾城の遺構がある。しかし,松蔭寺古図や寺尾城については未解明の部分が多く,鶴見の中世は,なぞに包まれている。

 寺尾城主の諏訪氏は,代々小田原北条氏に仕える武将で,天正3年(1575)に滅びるまで5代百数十年間,寺尾城に居住していたといわれている。

 5代目の諏訪右馬之助は,城の麓の寺尾稲荷(馬場稲荷)に祈願して立派な騎馬武将になり,小田原旗本四十八番衆になって活躍したと伝えられている。

 江戸時代,東海道からの分岐点(現鶴見図書館付近)に「寺尾稲荷道」の道標が建てられ,多くの武将が馬術祈願に訪れた。

観音堂跡から古銭2千枚が出土

殿山にある「寺尾城址」の碑寺尾城主代々の墓はいまだに明らかになっていない。寺尾城のあった辺りは「殿山」,寺尾城主諏訪氏が館を構えていたところが「諏訪坂」という地名として,歴史の一部を伝えている。

寺尾城址には,空堀や曲輪の跡が残されている。また,寺尾城の麓の観音堂跡からは昭和43年に古瀬戸のつぼに入った古銭約2千枚が出土した。

寺尾城址一帯は,横浜市教育委員会による発掘調査後,殿山公園として整備・保存されている。殿山には「寺尾城址」の碑がある。

<写真は殿山にある「寺尾城址」の碑>

東海道筋がにぎわった江戸時代

 豊臣秀吉が天正18年(1590)に小田原城を攻め落とし,戦乱の時代が終わり,全国が統一された。この時の戦功により徳川家康が関東250万石を封じられて江戸に入った。家康は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後,慶長8年に江戸に幕府を開いた。

 家康は慶長6年に江戸と京都を結ぶ最重要道路として東海道を整備し,街道に伝馬制をしいた。里程の目安として一里塚を築き,宿場を設けた。寛永12年(1635)には参勤交代の制度が確立。大名行列や数多くの旅人が行き交う東海道筋に人々が移り住むようになった。

 鶴見の東海道筋は神奈川宿と川崎宿の間の宿としてにぎわった。街道沿いに茶店やみやげもの屋が軒を並べ,米の粉でつくった「よねまんじゅう」と,市場周辺で栽培された「ナシ」は名物となった。

 生麦は,江戸城に新鮮な魚介類を献上する御菜八ヶ浦の一つとして栄えた。

<生麦の地名の由来>

 生麦は貝の名産地で,生の貝をむく「生むき」が転じて生むぎとなったともいわれている。また,徳川2代将軍秀忠がこの辺りを通った時,道がぬかるんでいたので,名主が機転をきかせ,畑の生麦を刈り取って敷き,行列を無事に通過させたので,生麦と呼ぶようになったともいわれている。

 生麦の路地には白い貝殻道が残っている。  

  

代官が治めた幕府直轄地

日本橋から5番目の「市場一里塚」 江戸時代の政治は幕藩体制と呼ばれ,徳川幕府の支配下にありながら,独立の領地をもつ藩主(大名)が,その領地から年貢米を徴収した。もともと徳川家の所領内にあった鶴見区域の大部分が幕府の直轄領となり,代官が治めていた。

 獅子ケ谷は小田切氏,駒岡は久志本氏の旗本領であった。

 獅子ケ谷の横溝家は,旗本領を管理してきた名主で,横溝屋敷は小田切氏の館跡に建てられたものである。駒岡の常倫寺には,久志本氏歴代の墓が残っている。

 代官の支配下で村内の民政をつかさどっていた名主は,村内のあらゆることについて責任があったので,村における権勢は強大であった。農村の暮らしは楽ではなかった。

<写真は日本橋から5番目の「市場一里塚」>

江戸を出て最初に渡った名勝鶴見橋

「鶴見橋」界隈の情景を紹介したパネル 鶴見橋(現鶴見川橋)は,家康が東海道を整備した慶長年間に架けられた橋である。六郷川の橋は元禄年間の洪水で流失し,明治初年まで渡し船になっていたため,鶴見橋は江戸を出て京都へ向かう旅人が,最初に渡る大きな橋だった。

 鶴見橋界わいは,葦の原にツルやミズドリが生息し,河口付近には帆かけ舟が浮かび,富士山も眺めることのできる景勝の地であった。初代広重の絵をはじめ,多くの文人墨客がその美しさを旅日記や歌に残している。

<市場下町公園にある「鶴見橋」界隈の情景を紹介したパネル>

大波紋を巻き起こした生麦事件

 安政6年(1859)6月2日に横浜が開港した。横浜には諸外国の領事館・商館などが建てられ,多くの外国人が居留し始めた。開港間もない横浜は混乱し,攘夷に燃える武士たちが外国人殺傷事件を繰り返していた。

 文久2年(1862)8月21日,薩摩藩主の父島津久光は,勅使(大原重徳)護衛の大任を終えて,京都へ向かった。久光の行列が生麦にさしかかった時,馬に乗った4人の外国人が行列に巻き込まれ,英国商人が警護の武士に切り殺されてしまった。

 これが世に名高い生麦事件である。幕末の混乱期に起こった外国人殺傷事件は,その後の日本外交にも大きな影響を与えた。

文明開化と鶴見

 慶応3年(1867),徳川15代将軍慶喜は大政を奉還し,明治維新(1868年)を迎えた。江戸は東京と改称され,日本の首都となった。

 首都東京と開港場横浜の中間に位置する鶴見は,文明開化の波をいち早くうけ,西洋野菜や果樹栽培なども盛んになった。また臨海部が埋め立てられ,近代工業都市に変貌していく。

鉄道の開通と鶴見駅の開業

大正9年に開設した鶴見駅西口 新橋・横浜間に鉄道が開通した明治5年に,鶴見駅も誕生した。開業当時は東口のみで,西口は大正9年(1920)に開設された。

 鉄道開業により東海道の往来はさびれ,鎌倉時代から鶴見神社に伝わっていた民俗芸能の「田祭り」も廃止された。日本古来の文化が消されていく一方,風光明媚で交通の便のよい鶴見に別荘を求めて移り住む人たちが多くなった。鶴見川河口には安芸様屋敷と呼ばれる芸州浅野家の広大な別荘があった。

 明治44年には曹洞宗の大本山総持寺が能登から移転してきた。豊岡通りは,鶴見川を利用して運ばれてきた本山の建築資材をトロッコで運搬するためにつくられた道で,「本山みち」と呼ばれていた。

 新橋の料亭花月の主人平岡広高が,大正4年に東福寺境内3万坪を借りて開設した児童遊園地花月園は,東洋一の大遊園地といわれ,最盛期には10万坪の敷地があった。遊園地のほか,活動写真,少女歌劇も見られ,子どもだけでなく,大人にとっても夢のパラダイスであった。

 花月園に隣接して劇作家長谷川時雨が田舎料理屋花香苑を開いた。三笠園や民衆花壇,上遠ぼたん園などもでき,鶴見のまちのあちこちで多彩な文化を開花させた。大正9年三笠園の水泳場房野池では,アントワープオリンピックの水泳予選が実施された。

<大正9年に開設した鶴見駅西口>

日本の発展を促した埋立事業

昭和30年代の鶴見駅東口 大正時代,浅野総一郎などによって大規模な埋立事業が進み,潮田の地先には広大な埋立地が形成された。旭硝子・浅野造船,芝浦製作所(東芝)や石油会社などが次々に進出し,京浜工業地帯発展の基となった。鶴見臨港鉄道も開通した。

 末広町の埋立地には飛行場も開設され,大正13年(1924)に,総持寺前・大師間に海岸電気軌道も開通。扇島の海水浴場は大勢の人でにぎわっていた。

 工業の発展に伴い,全国から多くの労働者が鶴見に集まり,潮田の本町通り商店街をはじめ,まち全体が大きく発展していった。しかし,第一次世界大戦後に襲った世界恐慌と,大正12年の関東大震災によって,産業界は大きな打撃を受けた。

<写真は昭和30年代の鶴見駅東口>

夢のあるまちづくり

混乱の時代と高度成長期を経て

 昭和2年(1927)4月,鶴見は横浜市に編入され,10月1日に鶴見区が誕生した。

鶴見区が誕生したころの区役所と山中竹樹初代区長 昭和13年に国家総動員法が公布され,昭和16年12月,日本は太平洋戦争に突入した。物資は不足し,人々は苦しい生活を強いられた。学童疎開も行われた。昭和20年4月15日,京浜工業地帯の中核を占める鶴見は300機以上の米軍爆撃機に襲われ,市街地は一夜にして焼け野原となった。8月15日終戦。

 戦後,花月園は競輪場に変貌した。

 朝鮮動乱による軍需景気から,日本は高度成長期を迎えた。鶴見の丘陵地や田園地帯には次々に住宅が建設された。

 大企業の工場が林立する工場地帯から吐き出す煙がまちをおおい,鶴見川は汚れ,一時期,鶴見は公害のまちと化した。

<写真は鶴見区が誕生したころの区役所と山中竹樹初代区長>

生まれ変わった“いいまち鶴見”

鶴見区制70周年記念パレード(潮風大通り) 石油ショックにより高度成長時代も終わりをつげ,横浜市の副都心の一つである鶴見区は新しいまちづくりに取り組んだ。臨海部の工場群も移転したり,脱公害がはかられ,空や海もきれいになった。鶴見駅西口周辺やレアールつくの,ベルロードなどの商店街も再整備された。バブル崩壊を経て,大黒海づり公園や高齢者保養施設“ふれーゆ”など,市民の憩いの施設がオープンし,横浜の新名所として若者たちにも親しまれている。

 日本の工業を支えてきた臨海部は,理化学研究所ゲノム科学総合研究センターを核に大学・企業の研究機関や研究開発型ベンチャー企業の集積地として再開発が始められた。

 明治以来,日本の近代化を担ってきた鶴見区は,平成9年に区制70周年を迎えた。人口25万人を擁する近代工業都市,商業都市,住宅都市である。また,鶴見大学・横浜商科大学の2大学をはじめ,公立私立の高等学校が10校ある学園都市,そして,多くの外国人が住む国際都市の顔も兼ね備えている。

 その特性と郷土の歴史をいかしながら21世紀を目ざした,新たなまちづくりが進められている。

<写真は鶴見区制70周年記念パレード(潮風大通り)>

参考リンク