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鶴見の国際交流


※掲載内容は平成11年3月に発行した冊子『つるみ このまち このひと』から一部を抜粋して紹介しています。この冊子は区民の方々による「つるみ このまち このひと」編集委員会が編集し、「いいまち鶴見運動推進委員会」が発行しました。
  したがって、内容が現在と異なる場合がございますのでご了承ください。

     

地域から始まる国際交流

横浜で2番目に外国人の多い区

「ラテンアメリカのお祭り」プレイベント韓国・朝鮮人2021人,ブラジル人1339人,中国人868人,ペルー人473人,フィリピン人469人,その他860人(平成11年1月31日現在)。鶴見区民約25万人中,外国人登録者数6030人,住民の2.4%(42人に1人)が外国人と,鶴見区は横浜市18区のうち,中区に次いで2番目に外国人の多い区である。

<「ラテンアメリカのお祭り」プレイベント>

古くから移り住んだ渡来人

弥生時代中期・後期,鶴見川・早淵川流域に,朝鮮の農村文化の系譜を引きながら展開したとみられる環濠集落・方形周溝墓(大塚・歳勝土遺跡・国の指定)が見つかっている。また,大磯町には「高麗山(こまやま)」という山がある。朝鮮の高句麗からの渡来人がこの山を目印に上陸し,定着したと伝えられる。秦野市も,渡来人の雄族・秦氏の一族が居住したことによるとされている。4世紀以降8世紀の奈良時代に及ぶまで,大陸,ことに高句麗・百済・新羅などからの人々の移住と多彩な文化の伝播が何度も繰り返されたと思われる。

国際交流の幕開け

安政6年(1859)横浜港が開港し,横浜に外国人が居留するようになった。しかし,長い間鎖国の続いていた日本と,外国の文化や慣習の違い,言葉の壁はあまりにも大きく,文久2年(1862)風光明媚な松原の続く生麦村で,大名行列を横切ろうとした英国商人が殺傷されてしまうという不幸な事件が起きてしまった。寒村で起きたこの「生麦事件」は,薩英戦争を引き起こす発端になり,開国を早めた。そして,後の明治維新へ影響を及ぼすきっかけとなったのである。

ヒューマニズムの原点

東漸寺の境内に建立されている大川常吉署長の顕彰碑明治43年(1910)日韓併合後,多くの韓国・朝鮮人が日本に移り住んだ。大正に入り,鶴見臨海部の埋め立てが始まり,京浜工業地帯形成期の大正9年(1920)前後から,潮田地区には朝鮮半島や,沖縄出身の労働者が多く住むようになった。

しかし,当時,外国人に対する差別は根強く,関東大震災のおり,朝鮮人暴動のデマが流れ,朝鮮人を殺害する事件が起きた。この時鶴見では,当時の鶴見警察の大川常吉署長が身体をはって多くの朝鮮人を救い,一人の死者も出さなかった。大川署長の行動は,まさしくヒューマニズムの原点であった。

後年,朝鮮人有志により,彼の徳をたたえる顕彰碑が,大川家の菩提寺の東漸寺(潮田町3丁目)に建立された。見学者は今も絶えない。

<東漸寺の境内に建立されている大川常吉署長の顕彰碑>