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第13回:菅沢町小史(その3)

海岸の埋め立てと工場進出

鉄道の開通

 1868年(明治元年)最後の将軍徳川慶喜は、大政奉還に応じ、新しい明治政府が樹立され約2世紀半続いた徳川幕府封建体制はここに崩壊した。 明治維新に先がけ1860年(万延元年)には、横浜が開港し長い間の鎖国は終りを告げ近代化、国際化の波はひたひたと菅沢村にも押し寄せてきた。
 明治政府は早くも明治3年(1870年)東京新橋・横浜間の鉄道建設に着手、明治5年(1872年)5月7日 品川・横浜間が開通、仮営業を始め9月12日、新橋・横浜間が全通し、鶴見駅も開業した。 黒い煙を吐いて力強く走っていくイギリス製の陸蒸気を沿線の人々は、好奇の目で眺め驚いたという。 鉄道開通により江戸時代の大往還であった東海道は寂れていき、川崎宿なども伝馬の制度がなくなったこともあり、宿としては消滅していった。 一方、一寒村であった横浜村は開港にともない外国の商社が軒をつらね、生糸輸出に沸く日本一活気のある町になった。
 純農村であった菅沢村はこれらの出来事に直接関係はなかったが、西洋野菜、果物(梨、桃)などを作る家もあらわれ、米以外に売るものがなかったこの地方に現金収入の恩恵を与えた。

浅野総一郎による埋め立て

 小田、下新田(今の浅野町)、潮田の海岸は地元有力者の手によって既に幕末のころから開発(干拓)が行われてきた。しかし、遠浅の海岸はほとんどが昔のままで、魚、貝類、海藻類などのよい漁場であった。
 実業家浅野総一郎は明治29年(1896年)欧米を視察、巨大な工業地帯は臨海埋立地に集中しているという事実を知り、帰国後、神奈川と東京の間の海岸を自ら実地調査し、小田、潮田沖の海岸が理想的な適地であると判断、金融界の安田善次郎と組んで、明治45年(1912年)から埋立工事に着手した。紆余曲折があったが大正2年(1913年)英国より最新式の電動式サンドポンプ船を購入、これを稼働させ本格的な埋立工事を開始し大正11年(1922年)に竣工した。 この土地に旭硝子、浅野セメント、日本鋼管製鉄所、浅野造船製鉄所、日本鋼管鶴見造船所、芝浦製作所(現東芝)、スタンダード石油、ライジングサン石油、三井物産石油など有力企業が進出し、京浜工業地帯の中核になっていった。
 一方農民であった菅沢を初めとするこの地域の人たちは、農業のかたわらこれらの工場の建設工事に従事し、農業では到底得られない現金収入を得た。芝浦製作所の建設現場へ働きに行った菅沢の人たちの話しによると、この工場はアメリカのGE社をモデルとした、当時東洋一の最新鋭工場であったという。 当時このような工場を建てる建設会社が日本には少なく、アメリカの建設会社が請負い、アメリカ人の技師、現場監督が大勢来ていたという。 私の父の友人は小学校しかいっていなかったが、アメリカ人の指揮下で仕事をしているうちに英語を覚え、アメリカ人監督の信望を得て通訳兼監督のような立場になり、休みの日にはアメリカ人監督が菅沢の家に遊びに来ていたという。
 工場が建設されると当然そこで働く人が必要になる。この地域の人たちも多くの人が農業を止め、または今でいう兼業農家として工場勤めを始めた。 今では何でもないことのようだが、江戸時代以来、一年中粗末な衣服を着て田や畑を這いつくばって、辛い労働に明け暮れながら、自分で作った米もろくに食べられなかった零細な農民にとって、工場に勤め給料を貰うということは大変な出来事であり、大いなる変革であった。 また全国から工場に勤める人、下請、物品の購入に出入りする業者などの関連する人たちが集まり、特に工場に近い潮田地区を中心として、住宅の建設が進み、商店街も活況を呈した。 潮田に隣接する菅沢も徐々に田んぼを埋めて、住宅が建ち、商店街も出来て、農村から、都会へ変わっていった。 広い土地を持つ大百姓も徐々に百姓を止め、宅地として貸したり貸家を建てたりして、資産家となっていく。 今の大都市郊外で起きている現象と同じである。
 
工業地帯への埋立て 鶴見区史より
図8 工業地帯への埋立て 鶴見区史より


川・運河の開削と京町、平安町の誕生

図9 川﨑運河と京町、平安町の分譲地
  図9 川崎運河と京町、平安町の分譲地
 今平安町と隣の京町の町の道路が碁盤の目の様に整然と整備されている。これには実は大正末期に完成した川崎運河の開削とそれに伴う工場用地、住宅用地の造成によって出来たものである。
 戦前からこの地区に住んでいる人は知っているが、現在京浜テニスクラブのテニスコート、さらに北側および南側のマンション、日東緑道、入船公園、入船橋から南に通じるラインに運河があった。 この運河は京浜電鉄(京浜急行)によって、大正8年から11年にかけて沿線開発の一環として、小田と菅沢との境に運河を開削し、その土砂によって両岸を埋め立てて25万坪の工業用の土地を造成した。横浜ゴム、京三製作所などの工場が進出したが、当時の経済不況と重なり、工場用地としては完売する見込みが立たず、残りを宅地として、道路を整備、分譲したのが今の平安町と京町の街並みである。
 小田、潮田沖の埋め立てが完成し、大工場が次々と建っていった時期と重なって、菅沢は耕地の主要な部分がなくなり、一気に農村から都会に(と言っても住宅地)へ変貌して行った。 当時の買収価格は坪当たり1円30銭から1円50銭で、京浜電鉄は用地30万坪(京町も含む)の買収費として39万円を計上した。私が通った平安小学校のクラスの中に平安町の友だちが何人かいた。 初期の分譲地を買った人たちの子弟である彼らの家に遊びに行ったことがあるが、屋敷は百坪ぐらいある洒落た洋風の家で菅沢辺りの農家風の家や長屋が立ち並ぶ風景とは雰囲気が異なっていた。
 住んでいる人たちは東京から来た人が多く、初期のころは有名な歌舞伎役者、画家、大企業のホワイトカラーなど社会的にハイ・レベルの人が多かった。 いまなら、差し詰め田園都市線の沿線の分譲地といったところか。 しかしその後工場の煙、周辺の環境の悪化などにより、これらの人々は徐々に去って行った。 なおこの運河は初期のころは舟も通り、利用されたが結局運河としては余り利用されず、昭和16年ごろから日本鋼管の鉱滓によって埋め立てられ消えていった。

村から町へ

 菅沢町は現在、行政区画的には横浜市鶴見区菅沢町であるが、どこの町にも歴史と変遷があるように菅沢町も幾つかの変遷を経て現在のかたちになった。

 ◆江戸時代→明治元年              武蔵国橘樹郡菅沢村
  菅沢村は地名は江戸時代初期から存在していた。
 ◆明治元年―明治22年3月末          神奈川県橘樹郡菅沢村
   明治維新によってこの地方は武蔵国から神奈川県になった。
 ◆明治22年4月1日→大正12年3月末      神奈川県橘樹郡町田村

  明治政府が市町村制の制定に伴って幾つかの村を合併させ、江ケ崎村、矢向村、市場村、菅沢村、潮田村、小野新田が町田村となった。このことが後に菅沢村等が横浜市へ編入される布石となる。 また菅沢村をはじめ各村は町田村の大字となる。

 ◆大正12年4月1日→大正14年3月末      神奈川県橘樹郡潮田町
  町制がしかれ潮田町と改称、各村は旧村名が大字となる。
  関東大震災が起きた時は潮田町であった。
 ◆大正14年4月1日→昭和2年3月末       神奈川県橘樹郡鶴見町
  潮田町、鶴見町は種々の理由から合併した方が得策であると判断し、合併して鶴見町と
  なる。特に鶴見川水害対策を合同で推進し、上水道及び大震災の復興事業計画に対し
  ては、一層努力していくことになった。
 ◆昭和2年4月1日                   神奈川県横浜市鶴見区菅沢町
  横浜市に編入、同10月1日区政を実施、現在に至る。

 横浜市に編入され、その後、区制がしかれて現在の名称となる。これには開港以来発展を続けてきた横浜市がさらに港拡張のため、鶴見の海岸の地域が必要だったことと工業都市として発展するためにも、鶴見の臨海地域の後背の平坦な土地が必要だったためとされている。 横浜市との合併には反対運動もあったが紆余曲折の後実現した。 この編入の時鶴見側は、莫大な費用がかかる水道事業を単独で行うより、横浜市のもとで行った方が有利になるとの判断もあったという。
 この編入によって江戸時代以来、川崎分であった鶴見川左岸の潮田、菅沢、市場、江ケ崎、矢向は本来なら川崎市になっても何ら不思議でない地域であったが、横浜市になった。

菅沢町(村)で使われていた屋号・愛称

 戦前まで、土地の人は、お互いの家を屋号で呼ぶことが多かった。屋号というよりは、愛称といったほうがふさわしい場合もある。 昔は村全体が農民で村落運命共同体なので親しみを込めて屋号・愛称でよんだのではないかと思われる。 現在は唯一、隠居屋さんのみ立派に屋号として使われているが、他はほとんど、使われていない。 いずれ忘れ去られて消滅していく運命にあると思われる。 愛惜をこめて一部紹介させていただく。

 東(の家)・西(の家)・南(の家)・北(の家)・隠居・ラオ屋・寺前(寺の前、テランメー)・平兵衛ドン・

チョードサン・むけ―の家(向うの家)・二っつ山・イクシンヤ・お店・はずれ(の家)・はちえむさん

(八右衛門さん)・コンジョウ様・デンドさん・銅金さん

※屋号・愛称の”家”は、”うち”と読みます。