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第8回:なぞに包まれた中世の寺尾城(その1)

寺尾城址

 JR京浜東北線の鶴見駅西口から川崎鶴見臨港バスの殿山バス停から馬場三丁目の坂道をのぼった住宅地の一角に「寺尾城址」の碑がある。 殿山と呼ばれる丘の上には、その昔寺尾城があったと伝えられている。お城といっても天守閣のあるような立派な建物ではなく、砦のような山城であったようだが、寺尾城についてはその全容はなぞに包まれており、未だ解明されてはいない。信州の豪族諏訪氏が1436年ごろに築城し、1569年、武田信玄が小田原城を攻撃したとき、城主が小田原城の守備に出向いていて留守の間に武田軍に攻められ、落城したと伝えられている。
寺尾城址碑

城主諏訪氏について


 諏訪氏は、信濃の豪族諏訪一族の支流で、戦国時代になって鶴見の寺尾に進出してきたといわれている。小田原北条家に仕える武将として各地での戦いに加わっていたことが「北条記」などに記されている。寺尾の諏訪氏は、天正3年(1575年)に滅びるまで5代、百数十年間、寺尾城に居城していたといわれている。
 寺尾城主の諏訪氏は、後北条氏が相模統一を達成する段階において、北条早雲のもとに参じ、小田原城平定の際、最初に功績をあげた家柄ということで、相模衆十四家にも列されている。『小田原衆所領役帳』には、「諏訪三河守、二百貫文、久良岐郡寺尾」と記されていることなどから、諏訪三河守は天文年間(1532~1554年)の人物と推定されているが、諏訪氏の寺尾城構築の年代は、建功寺の「霊簿」(過去帳)および「新編武蔵風土記稿」によって、永享年間(1430~1440年)ではないかと推察されている。

 建功寺『霊簿』には、「白幡大明神は足利尊氏将軍なり。尊氏将軍より十七代目足利義教(六代目)永享七年六月五日、寺尾城主諏訪勧請しまつるなり。享保十六年亥年(1731年)まで二九八年。寺尾城主二代目諏訪参河守、三代目平三郎、四代目参河守、五代目馬之丞時」と、寺尾城の歴代の城主の名も記録されている。

  『新編武蔵風土記稿』の「馬場村 城蹟」に、「小田原北条家に属せし諏訪三河守が居城の跡なりと云。今も村の中央にある丘の上なり。年歴しことなれば今は堀なども埋まりて只雑木のみをひ茂れり。『小田原家人所領役帳』二百貫文寺尾諏訪三河守とあり。又、『小田原記』に武州寺尾の住人諏訪右馬助のことをも載せ、西寺尾村の建功寺の旧記には、彼村に建る白幡明神は「永享七年六月五日寺尾の城主諏訪勧請す」とあり。是も三河守か祖先なるべし。是によれば永享の頃ははやたちし城なることも知らる」と、建功寺の旧記(霊簿)から寺尾城の建立年代を推察している。
 また、『新編武蔵風土記稿』「橘樹郡鶴見村・諏訪家屋敷」に、「海道より右方へ五六丁ゆきて丘上にあり。一株の大松あり。是古へ諏訪午之丞居住ありしところにて、其頃の松なり。故に土人今も諏訪の松といへり。諏訪三河守某と云人北条家の家人にて、此辺寺尾を領せしことはかの家の所領役帳など云ものに出せり。午之丞は其の子などにや」と、諏訪氏の館が現在諏訪坂という地名が残る丘の中腹にあったことなどが記されている。

 諏訪右馬之助は武勇に優れた武将であったらしい。軍記物語にしばしばその名を見ることができる。明応4年(1495年)、北条早雲が、扇谷上杉と和談の交渉を進めたおりの使者が「武州寺尾の住人諏訪右馬之助(『北条記』『鎌倉公方九代記』)であり、結城合戦のとき諏訪氏は上杉方について戦ったと思われる。また天文23年(1554年)3月、駿河(静岡県)で北条氏康と武田晴信が激しく戦った加島合戦のとき、小田原方の一人として富士川を越えて、諏訪右馬之助も一番槍の手柄を立てたことが『北条記』に記されている。そして、小田原北条氏が全盛期を迎えた永禄2年(1559年)の『小田原衆所領役帳』には、諏訪三河守は二百貫文、久良岐郡寺尾を知行し、江戸衆(江戸城に参じる軍団)に配属されたことなどが記されている。

 寺尾城址近くに5代目城主諏訪右馬之助が馬術上達祈願をした寺尾稲荷もある。