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第7回:シーボルトと熊茶屋(その2)

 街道の茶屋で見世物になった熊の評判は、やがて江戸にも伝わり、次第に有名になっていった。文政5年4月6日、徳川御三卿の田安右衛門督が川崎の大師河原(川崎大師参詣か)まで来た折に、熊茶屋の熊を見たいと、大森の御鳥見役を通して知らせがあった。このため、川崎堀之内の叶屋権左衛門方まで名主藤右衛門の代理として享二(藤右衛門の子息)が出迎え出ることになっていたが、急に日延べになった。5日後の11日再び田安右衛門督が大師河原に来て、今度は目的通り熊を見ることができた。「関口日記」には次のように記している。

 文政五年四月六日庚戌朝曇り
 田安右衛門督様大師河原御成ニ付、熊茶屋之熊御覧被遊候由ニ而、大森御鳥見高倉庄九郎様ヨリ昨日御状到来ニ付、今日川崎裏堀之内叶屋権左衛門方迄ニ同道御請ニ参ル、然所延引ニ相成候。

 文政五年四月十一日乙卯晴天
 田安様今日大師河原江御出ニ付、熊御覧被遊候。

 名物になっていた熊茶屋五左衛門の熊も文政9年4月22日に死んだ。シーボルトが見たのは同年の4月9日だから、13日後であった。同日熊茶屋五左衛門は、名主藤右衛門へ熊の戒名を頼みにいった。「馴余変猛牝熊胎子」と戒名がつけられた。翌日には熊の法事を執り行い、線香代として金50文が名主から熊茶屋に届けられている。

 文政九年四月廿二日癸酉曇リ
 昨日熊茶屋五左衛門来リ熊死去イタシ候ニ付法名頼候ニ付、
馴余変猛牝熊胎子ト附遺候。

 文政九年四月廿三日甲戌晴天
 一、五拾文 
 熊茶屋法事ニ付線香代 
 享二被招候。

熊が死んだ翌年8月、熊茶屋では蕎麦屋を店開きしている。熊が死んで商売の方針を変えたものであろうか。

 文政十年八月十五日戌子雨天
 熊茶屋ニ而蕎麦見世開キ致候由ニ而貰。

 五左衛門の熊が死んで、忠左衛門の白熊(北極熊でなく、月の輪熊の白子と思われる)が人気を呼んでいたが、この熊は、文政11年(1828)4月26日急にあばれだし、危険になったので打殺してくれるよう町内に申し入れた。
 同日、町内の者が集まり、マングワや鳶口、竹ヤリ、め突きなどをもって白熊を鉄のクサリに結びつけ、人々を熊から離れさせた。一方牛久保村(現在、横浜市港北区牛久保町)へ使いを出し、鉄砲で熊を打殺してくれるよう頼んだ。もし殺し損じて逃がすようなことがあって近在の村に迷惑をかけ、怪我などをさせては申し訳ないと思ったからだ。用心のため鉄砲を撃つ手はずだったが、使わずに打殺すことができた。

 文政十一年四月廿六日巳丑曇リ
 忠左衛門飼置候白熊昨日マデ荒レ候段承候間可打殺段町内江申付候。
 今昼前町内之者寄合馬鍬鳶口竹鑓見突等之品々ニ而、右白熊鉄クサリ片々結付片々相離レ罷在候ニ付昨夜小前之者共遠在牛久保村江罷越百姓相頼来リ若殺損取逃候ハ、近村江罷越怪我等為致候而ハ不相済事ニ付為用心鉄砲打相頼置候得共右之品ハ不相用打殺候ニ付当人江書付差入相帰申候段無相違御座候。

 地元生麦に、熊を飼っていた茶屋についての記録らしきものは、何もない。が、わずかに慶岸寺にある五左衛門の墓石に、「熊茶屋」の刻銘が残っている。また、白熊茶屋の跡地に葬られた白熊は、後に白熊神社として碑が建てられ、その子孫によって、今も欠かさず香華が手向けられている。

白熊神社碑『郷土つるみ』第11号
 「シーボルトと熊茶屋 関口日記に見る熊茶屋顛末」(伊藤 実著)より