(3) 第三回地価高騰(1986年(昭和61年)12月〜1991年(平成3年)2月)ごろ
バブル到来
プラザ合意をきっかけとする全国的な金余り現象を背景に、1983年ごろから都心三区を中心に地価が上昇し始めました。
東京では、午前に買った土地が午後には2倍になると言われるほど地価が高騰し、西新宿のある土地では、83年7月から土地の転売が繰り返され、2年8か月後の86年3月には、28倍の価格に当たる坪当たり3,150万円で取引されたことが、当時の新聞に掲載されています※1。
都心での土地の供給が少なくなった結果、価格競争が過熱し、購入需要は冷めることなく、都心部周辺へと広がり、みるみるうちに土地の買い占めが、周辺地域へ波及し、ついには地価の上昇が、日本全国へ広がりを見せました。
同じ時期には、本州四国連絡橋(瀬戸大橋)や青函トンネルが次々に完成し、日本列島の四島が結ばれ、国土全域にわたる巨大な交通網が目に見えるものとなりました。このことが、一層開発意欲と土地購買意欲の両方をかき立てることにもなり、また、総合保養地域整備法(リゾート法)による大規模な開発プロジェクトも、地方での土地需要を後押し、地価の更なる高騰をもたらす一因になったということが言われています。
横浜での状況
高額な土地取引は、横浜でも多発しました。当時の状況を、住宅地の平均地価公示価格で追ってみると、87年から急激な上昇傾向が現れ、翌年には変動率が93.1パーセントという過去最高の数値になっています。これは、一年間で地価がほぼ2倍になったことを示すものです。
バブルの絶頂だった91年には、住宅地での地点最高価格は1平方メートル当たり142万円(中区山手町)となり、商業地での地点最高価格は2,140万円(横浜駅西口)を記録しました。
2009年地価公示では、それぞれ1平方メートル当たり49万円(住宅地)と610万円(商業地)ですので、単純に比較しますと、3倍から4倍以上も高かったことになります※2 。
横浜では、1985年に人口が300万人を突破しました。89年には横浜ベイブリッジが開通し、工場団地として計画された金沢区の埋立地では、新交通金沢シーサイドラインが開業するなど、ダイナミックに街づくりが進んでいました。
みなとみらい21事業が着工していたみなとみらい地区では、都市を活性化させるイベントとして、市政100周年開港130周年を記念する横浜博覧会(YES`89)が、89年に開催され、1,300万人の来場者でにぎわいました。
バブル崩壊とその後
急上昇した地価は、不動産関係の融資に対する総量規制を始めとする国の施策の影響から、一気に下落しました。
地価を担保にしていた株価や証券なども急落しました。これがバブルの崩壊と言われるものです。このバブルの崩壊は、わたしたちの生活にも、大きく影響を与えました。
わたしたちは「土地神話」が崩れたことで、意識と暮らし方の両方について、転換させられることになりました。
バブルより前の価格を基に計算された財産の価値は否定され、資産運用の見直しを迫られました。期待価値を当てにしたことで生じた膨大な負債の処理などが優先された結果、経済活動はブレーキを掛けられた状態になりました。
バブルの崩壊によって、経済的な活動が冷え込んだ時期は「失われた15年」といわれています※3。
本市においても、地価の高騰とこの「失われた15年」によって、施設整備の遅れを始めとして、様々な影響がありました。
その後、平成19年地価公示で住宅地、商業地ともに上昇に転じ、平成20年地価公示では2年連続しての上昇となりましたが、平成21年地価公示では、全用途で再び下落に転じました。
- ※ 1 「朝日新聞」1989年12月14日
なお、参考として、2009年地価公示の最高価格は、中央区銀座の1平方メートル当たり3,820万円です。 - ※ 2 住宅地は近接地点、商業地は同一地点です。
- ※ 3 バブル崩壊後の、長期の景気低迷期を指し、2002年又は2003年ぐらいまでが「失われた10年」と言われています。