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47.ジェラールの水屋敷 

ジェラールはこの地の良質な湧水に着目し、貯水施設を造り、パイプで水を船舶に送り、販売する給水業を営んだ。この施設は「水屋敷」と呼ばれていた。

碑文

ジェラールの水屋敷
 横浜の市街地の井戸の水は塩分を含んでいて、飲用には適していませんでした。他方、丘陵地帯の麓には良質の湧水が多く、上水道が整備されるまでは、そうした湧水を汲んで市中を売り歩く「水屋」の姿も見られました。この点に着目したジェラールは、山手の麓に水源を確保し、パイプを敷設して、山下居留地や寄港船舶に供給しました。これを見た横浜の人々は、ジェラールの給水業のための施設のことを「水屋敷」と呼ぶようになりました。
 ジェラールは、まず明治元年(1868)中村宇池ノ谷戸(現在の中区打越)に水源を得て、船舶給水業に着手します。現在の「打越の湧水」がこの水源の名残です。明治3年までには山手77・78番(現在地)に新たな水源を確保しました。ここが「水屋敷」と呼ばれることになります。前者からは山下居留地 169番(のち188番に地番変更)の事務所まで、後者からは堀川までパイプを通して給水しました。前者は山下居留地、後者は寄港船舶を対象とするものと思われます。

Aジェラール
 フランス人ジェラールは元治元年(1864)に来日、169番(のち188番に地番変更)で船舶供給業を営んだ。明治元年、中村字池ノ谷戸 (現在の中区打越?) に水源を得て船舶給水業に着手。明治3年までには山手77・78番に新たな水源を確保、やがてここに西洋瓦・レンガ製造工場を建てる。最古の瓦銘にある「1873年」(明治6年)が創業年であろう。
ジェラールの名は明治23年ごろ、記録から消える。レンガ工場はその後も操業が続けられ、明治40年には設備を更新している。ジェラール給水株式会社 (大正11年設立、野田久三郎のち金子玉久の経営)は給水部門の後身であろう。
震災時、被災者への給水に貢献、のち横浜市が買収した。図の工場を見ると、1・2階の境目に自社製の瓦を張り付け、門の上には、飾りと侵入防止を兼ねた奇妙なかたちの瓦が置かれている。なお工場内のヒマラヤ杉は今も元町プール前の小公園に枝を広げ、近くには工場入りロレンガ塀の遺構があり、こんこんと清水が湧き出ている。(斎藤多)

A・ジェラール年譜
天保8年(1837)フランス、ランス市にて、パン屋の父ジャン・ニコラ・ジョセフ・ジェラールと母テレーズ・ランベール・シェリュイの間に生まれる。
元治元年(1864)来日、169番 (のち188番に地番変更) で食肉など食料品の船舶供給業を営む。
明治元年(1868)中村宇池ノ谷戸 (現在中区打越) に水源を獲得、船舶給水業を始める。
  3年(1870)この年までに山手77・78番に水源を確保。
  6年(1873)この年までに、山手77・78番に西洋瓦・煉瓦製造工場を建てる。また、この頃、山下居留地188番(旧169番)にジェラール・ビルを建設(最初期の煉瓦造建築の一つ)。
  24年(1891)この頃、帰国。在日中に収集した仏像・能面・一刀剣・陶器・木版画,古銭などのコレクション約2,500点をランス市美術館に寄付、現在も「ジェラール・ コレクション」として保存されている。工場の経営権はルイ・スゾールが継承。
大正4年(1915)ジェラール、ランス市で死亡。享年78歳。晩年は金利生活者として故郷で悠々自適の生活を送っていた。農業技術に関する本の収集家として知られ、蔵書は遺言により遺産によって設立された農業サークルに引き継がれた。遺産相続人は秘書のシャルトン。
  9年(1920)工場敷地に、大正活映の撮影所ができる。
  11年(1922)工場跡地に、ジェラール給水株式会社設立。
  12年(1923)関東大震災。ジェラール給水株式会社が罹災者への給水に貢献。
昭和2年(1927)横浜市がジェラールの遺産相続人シャルトンから工場跡地の永代借地権を買収。
  5年(1930)横浜市青年連合団の提案により、湧水を利用したプールが建設され、この年オープン。周囲一帯は公園として整備された (現在の元町公園)。




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