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第161回 賑町(にぎわいちょう)の劇場街と喜楽座(きらくざ) (2012年12月号掲載)

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【図版解説】賑町の喜楽座(横浜開港資料館所蔵)
タマネギ型の高楼が特徴であった。大正4(1915)年、外装を変えて椅子席を導入し、花道が着脱型となった。

 伊勢佐木町が成立したのは、明治7(1874)年である。隣接する羽衣町にはすでに「下田座(しもだざ)さの松」(のちの羽衣座)があり、伊勢佐木町・松ヶ枝(まつがえ)町・賑町(現在の伊勢佐木町一~四丁目)とその界隈が繁栄するにおよんで劇場・寄席ができた。伊勢佐木町の入口の左右には、寄席の新丸竹と、劇場の蔦座が大きくかまえていた。ところが明治32(1899)年の盛夏、南風にあおられた「雲井町大火」の業火で伊勢佐木町・松ヶ枝町・賑町一帯は全焼し壊滅した。
 「雲井町大火」後、羽衣座や、松ヶ枝町の寄席新富亭、賑町の賑座などが再興した。その後20世紀をむかえて、伊勢佐木町・松ヶ枝町は商店街として発展し、横浜の興行は賑町に集まった。19世紀末に登場した活動写真も当初は劇場で上映され、常設館(映画館)もできたが、これも賑町中心に発展した。
 劇場には格式があった。賑町の劇場でもっとも庶民的なのは、横浜のスカーフ製造に従事する通称「ハンケチ女」たちが支えた賑座であった。他方、高級劇場を打ち出したのが、両国座の焼け跡に建てられた喜楽座。東京・大阪の一流役者が他所で芝居をする場合、その土地最高の劇場で「大歌舞伎」ののぼりをあげたが、明治末~大正前期にかけて喜楽座はその地位を羽衣座から奪っていった。

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絵葉書にある喜楽座正面前の通りは、関東大震災後の区画整理によって失われた。喜楽座は、昭和期には、映画会社日活が所有し、現在は日活会館となっている。


 喜楽座は、市村羽左衛門(うざえもん)・中村歌右衛門(うたえもん)・市川團蔵(だんぞう)ら歌舞伎の一流役者や、欧米でも人気を博した川上音二郎らの興業場となり、映画館に衣がえした劇場の「座付き役者」まで吸収していった。活動写真についても積極的で、海外フィルムの国内初公開にも対応した。
 しかし喜楽座の天下も長くは続かなかった。東京の歌舞伎座を手中にした松竹合名社は、大正4(1915)年から曙町の横浜座を経営し、横浜座だけに先述の一流役者たちを送り込むようになったからである。以後、喜楽座に「大歌舞伎」ののぼりはあがらなかった。横浜は、劇場主が興業の主体である時代が終わり、娯楽資本の影響のもとで興業が行われる時代になったのである。

(横浜開港資料館主任調査研究員 平野正裕)

 

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国際都市横浜の顔~横浜中華街大通り
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緑に囲まれた街路 -日本大通り-