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第160回 緑に囲まれた街路 -日本大通り-(2012年11月号掲載)

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 「神奈川県庁ト日本大通」大正時代
横浜都市発展記念館蔵

 横浜公園から象の鼻パークに向かって一直線に伸びる日本大通り。銀杏(いちょう)並木の両側には戦前からの歴史的建造物が建ちならび、週末にもなると多くの観光客がオープンカフェでくつろぐ姿が見られる。昨年度には象の鼻パークとあわせて都市景観大賞を受賞した日本大通りだが、現在の景観は大正12(1923)年の関東大震災後に形成されたもので、震災以前の日本大通りは、絵葉書に見るように少し様子が異なっていた。
 絵葉書は、日本大通りの突き当たりにあった横浜税関から、横浜公園の方向に通りを望んだものである。右手の建物は、大正2(1913)年に建てられた神奈川県庁舎。現在は、震災後に再建された庁舎が「キングの塔」を持つ建物として知られているが、大正時代は正面に小さな塔を立てた赤煉瓦の庁舎であった。屋根の向こうには、大正6(1917)年に完成した開港記念会館の時計塔(ジャックの塔)が顔をのぞかせている。
 注目したいのは、通りの両側に広がる植樹帯である。そもそも日本大通りが誕生したきっかけは、幕末の慶応2(1866)年に発生した横浜大火であった。開港場のほぼ3分の1が焼失した火災を受けて、諸外国は幕府に対して外国人居留地の改造を要求し、そうして明治初期に完成したのが現在の日本大通りである。日本大通りは居留地(現在の山下町一帯)への火災の延焼を防ぐための防火道路として計画された。現在でさえ交通量がさほど多くないというのに、幅36メートルもある街路が誕生した理由は、交通ではなく防火の観点からであった。

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現在の日本大通り。
象の鼻パークの上を通る山下臨港線プロムナードから望む

 通りの両側の植樹帯も、並木としてではなく防火帯として植えられたものである。車道と歩道のあいだに木を植えるのでなく、車道と歩道のさらに外側に、歩道よりも広い幅9メートルの植樹帯が設けられていた。歩行者にとっては、今以上に緑を感じることのできた街路だったのではないだろうか。
 このユニークな景観は関東大震災まで続いた。現在の銀杏並木は、震災後の復興事業で整備されたものである。

(横浜都市発展記念館・主任調査研究員 青木 祐介)

 

 

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