文筆業に従事しているらしい女性が、スーパージェッターかマグロかと思われる人物から電話で「海芝浦にいきませんか」と説き伏せられ、鶴見線の終点・海芝浦に向かいます。通過する駅名、道中で見かける看板、出会う人々など、あらゆるものが主人公に何かを思い起こさせます。主人公の見るもの、聞くもの、頭の中をよぎる光景、すべてが、たたみかけるように語られていきます。とある看板の「ウエス」という文字を見て、主人公が唐突に思い出すのは、父が自家用車を拭くためのぼろぎれをウエスと呼んで、家族に用意させていたこと。主人公が思い出す間、鶴見区の臨海部を旅していた読者は、たちまち、三十年ほど前のあるコンビナートに近い家庭に連れて行かれます。主人公にとって、今一番圧倒的な現実は、目の前の看板か、思い出か、それとも父のぼろぎれを思い出した自分の心か……でも、この小さな旅は決してスピードをゆるめずに続くのです。

工場地帯となっている鶴見線沿線の鶴見区臨海部は、著者に、この世のものともなんとも見定めのつかない空間を提供しました。特に鶴見線終点の海芝浦の駅は、片側が海、改札の向こうは東芝の敷地で部外者は立ち入り禁止、帰りの切符を買ってまた駅に入ることだけが許されているという場所です。埋立によってできた工業地帯の海ぞいの線路、そのまま帰ることだけが許された駅。空と海とむきだしの人工物しかない空間には、こんなところがあったのかと思わせる独特の雰囲気があります。鶴見線沿いに主人公のたどる道を行くと、作品そっくりの光景に出会うこともあります。ただ、鶴見線は便数が少ないため、作品どおりに回るには時間をたっぷりとる必要がありそうです。笙野頼子は、この作品で94年度第111回芥川賞を受賞しています。
海芝浦駅のホーム 柵の向こうはすぐ海 海の向こうに工場群 |
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