歴史の散歩道

歴史の散歩道~こうなん道ばたの風土記

「こうなん道ばたの風土記」(改訂版)は「港南の歴史研究会」の編集により、平成11年10月に発行されたものです。
※原文の記載通りに掲載しているため、区の施策、その他刊行物等と必ずしも一致するものではありません。
すでに絶版となっています。港南図書館または港南区内の地区センターで閲覧できます。 

第一章 金沢道と森・杉田道周辺

 金沢道(かなさわみち)とは、普通近世において保土ヶ谷宿から金沢区町屋にあった陣屋までの道をいう。そして、鎌倉時代には鎌倉から朝比奈の切り通しを経て、金沢から保土ヶ谷へと向かう「東の道」として重要視されていた。区内では、上大岡から杉田方面に向かう大岡川右岸の道が、「金沢道」または「鎌倉道」といわれている。また、森・杉田道とは上大岡駅東側の道で、古来杉田の梅林に向かう近道として利用されたといわれている。なお、森道とは、海岸方面の森村へと向かう道である。

付近に笹下城の大門があった元笹下橋

 現在、古道としての面影を深く留めている所は、日下小学校から金沢方面へ100m程先の「新川橋」信号先から左へ向かう川沿いの小道である。ここにある「元笹下橋」は、戦国時代に笹下城の大門のあったと推定される由緒の地である。城の外壕として使用された笹下川岸の竹やクヌギ林の静けさは、秀吉の小田原攻撃軍を迎え撃ち、先祖伝来の恩顧に報いるため死地に赴いた「間宮武士団」の夢の跡を偲ぶにふさわしい。この山中城の戦いで討死にした間宮康俊が、若き日に笹下本城から守備に赴いた森陣屋(現在の屏風ケ浦駅東側付近)へ向かう戦略道路の山路が今も残っている。

 この道は、金沢道から笹下三丁目三九番と十五番の間で東に分かれ、更に左に向かう坂道で地元では「森道」といっている。これは「新編武蔵風土記稿」(以下、「新編武蔵」という。)に、「雑色村・・・此道(金沢道)の中程より東にわかれる道あり、幅五尺・・・森公田村の方に通ず」と記されている。森道といわれるものは、幾筋もあり、一般には笹下二丁目の「関の湯」横の道が著名である。

第二章 日野道から峰への道を尋ねて

洋光台通りと交差する古道の柳

 関村の中心ともいえる東樹院の前あたりで「金沢道」から西へ折れる道がある。これを日野道という。「新編武蔵」にも、「又、日野道と言うあり、金沢道より別れ吉原村に達す。幅六尺」と記されている。この道は須藤生花店の前を通り、上笹下橋を渡ってから左右に分かれるが、それからのコースには諸説があり、一概にどれが間違いともいえない。

 しかし、全ての説は「日野道」の終着点は唱導寺の近くにある「六地蔵」付近であり、ここで「日野川右岸の道」と接続していたとしている。現在のバス通りである鎌倉街道が、拡張され切り下げられる前には、「六地蔵」付近は数メートル地盤が高かったので、「日野道」と「日野川右岸の道」との分岐点では、今よりずっと自然のものであったという。

 前は、「日野川右岸の道」の面影を留めていた所が、日野中央公園の西北端の脇にあった。ここには、挿絵にあるような柳の古木が、人気のない古道にあって、風に枝葉をなびかせていたものである。「日野川右岸の道」は春日神社前の庚申塔近くで、「峰への道」(宮下道)と分かれ、鎌倉街道の新橋付近で「日野川左岸の道」と合流した。近くには御供井戸(ごくいど)があり神社の用に供し、また旅人の渇きをいやしたという。

 「峰への道」は、徳恩寺前の日野川支流に沿って進み、宮下橋で東に折れ、「さわげ坂」を上ると、灸てん道(きゅうてんみち)という山道となり峰の護念寺へと続いていた。その道の傍、村境には観音堂があったといわれている。この付近は人通りの少ない寂しい山道であったらしく、「さわげば婆」などの恐ろしい伝説が多く残っている。

第三章 日野川沿いの鎌倉古道

御所ヶ谷付近、日野川沿いの鎌倉古道

 日野川左岸の鎌倉古道とは、栄区の本郷から港南台高校横を通り、小坪小学校の西側、金井村(現、日野南三~一丁目)と宮ヶ谷村(現、港南台四丁目)の境の山道を走り、昔あった「下馬橋」の付近で日野川上流を渡り、榎戸方面からの「宮ヶ谷道」を併せ、日野川左岸沿いに川と共に下り日野小学校前から大北道、更には青木台を経て大久保・最戸・別所に至って、餅井坂で「鎌倉下の道」に合流する道である。

 この「日野川左岸の道」は「新編武蔵」に「鎌倉海道」又は「鎌倉・金沢への近道」として、かなり詳細に記されている。何故このような道をとったかというと、古来武相国境の山並みは、鎌倉幕府が自然の要害とした程の険阻な場所で、現在の鎌倉街道にある「七曲」の辺りは、頼朝の側近であった斎田左衛門が砦を構えた所ともいわれている。今の、切り通しが完成する以前は、バスも港南車庫付近までしか通ってなかったという。この道は、「岡本橋」の項でも説明があるように、青木台の山道が歩行に適さず、その他の場所も日野川の氾濫などの多くの難儀の伴う道であったという。しかし、現在は急速に開発が進んだ地域なので、ここで古道の名残を求めるのは難しい。強いて挙げれば、光明時から南に進む辺り、御所ヶ谷付近であろう。特に、厳しい冬の頃、枯れ木立ちが空にそびえて立つ姿がいい。この寺に安置される「平安仏」も珍しい。

 「神奈川県史」には平安仏のある弘明寺(南区)~光明寺(港南区)~証菩提寺(栄区)~大善寺(横須賀市)を結ぶ武相国境の山根を走る古道を、仏教浸透の道として、平安時代からのものと想定している

第四章 鎌倉下の道

 鎌倉時代、鎌倉から武蔵へ向かう幾筋か主要街道があった。そのうち、鎌倉下の道が港南区内を走っていたという。この道は鎌倉から笠間を抜け、馬洗橋の南から弘明寺、更に保土ヶ谷に至るものであり、港南区内の道筋は幾通りもあるが、ここでは「永野郷土誌」(大津一男編集)と地元の伝承に基づき、小菅ヶ谷から上野庭と上永谷町の境を経て馬洗橋の南に至るコースを採用することにした。

野庭団地の近くを走る鎌倉下の道

 「永野郷土誌」は次のように記している。「当永野地区を通過する鎌倉古道は中里を抜け日限地蔵側の笹山城付近を通過する道もあるが、弘明寺から餅井坂、現南高校の東端を経て永作に出て馬洗橋から馬洗川に沿って下野庭、永谷境を南へ天谷に至り上野庭を経て本郷笠間に通ずるもので、この道を『新編相模風土記稿』(以下、「新編相模」という。)では、『小菅ヶ谷村、古道と称するあり、南方笠間村界にて今の道より北に折れ村の中央を貫き永谷村に連す。按ずるに正保の国図には此の道を本道とす』と記載されていること。更に尼将軍が往来された口伝等から推察して、この道が鎌倉古道の本道かと思われる」と。

 最近の鎌倉古道に関する研究では「中の道」と「下の道」の分岐点を次のようにあげている。
 (A説)日限山付近
 (B説)小菅ヶ谷小学校近くの花立とするもの
これについては後に「早駆けの道」の項で述べる。そして「永野郷土誌」では、「鎌倉下の道」を「新編相模」の「小菅ヶ谷村の中央を貫く道」としているので、小菅ヶ谷と笠間の村境付近のいたち川に架かる新橋から西北に折れる道の辺りを、分岐点と考えているものと思われる。

第五章 早駆けの道から永谷川に沿って

上野庭から見た早駆けの道

 地元の伝承では、港南区と栄区小菅ヶ谷及び戸塚区舞岡との境の古道を早駆けの道と称し、「港南の歴史」でも各所にこの道について記してある。開発前の古図によると、この「早駆けの道」は日限山付近の「下の道」からではなく、前述の三谷町公園付近から分かれていたことからも、小菅ヶ谷村で別れた「下の道」と「中の道」を結ぶバイパス道路の性格を持っていたものと思われる。なお、「中の道」と「下の道」の分岐点については、花立付近との説もあるが、最近の研究所では永谷とし、本書でいう「早駆けの道」を「中の道」とするものが多い。その説は更に、分岐点を
 (A説)日限山付近
 (B節)日限山小学校付近
とするものに分かれ、そこから馬洗橋に至る道を「下の道」とし、そのコースも、A説は永谷天満宮の西を、B説は丸山台を流れていた永谷川支流に沿って天満宮を東に通るものとしている。

 野庭町と丸山台の境を通る「鎌倉下の道」付近には鎌倉時代の伝承と史跡があり、日限山から永谷川周辺にかけては室町時代の史跡が多い。これは政治の中心が鎌倉から西へ移動したため、人の往来が野庭町と丸山台の境の道よりも、日限山経由の道を多く利用するようになり、鎌倉道も時代とともに移り変わったものと思われる。

 戦国時代から近世になると、政治の軸が小田原から江戸に移り、東海道が表街道になったため、鎌倉道は次第に忘れられ近隣の村民だけが通うものとなってしまった。

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