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歴史息づく横浜金沢
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金沢の古道と朝比奈切通金沢の古道と朝夷奈切通

金沢区の歴史を辿っていくと、鎌倉時代の鎌倉・江戸時代の江戸・浦賀等、地域の生活を繋ぐ動脈として、古道が当時から重要な役割を果たしていたことがわかります。
現在も盛んに利用されているこれらの道を巡ることで、当時の歴史を感じることができるかもしれません。
(※『金沢の古道』<金沢区役所 昭和59年発行>より 一部修正)

金沢の古道

六浦道(鎌倉道)

中世の代表的古道である六浦道は、文字通り、鎌倉と六浦津とを結ぶ道でした。
元来この道は鎌倉幕府の軍事的、経済的意図の基に開かれた幹線道路です。
金沢は、地理的・軍事的に鎌倉の搦手に位置しており、房総半島との交通の要・外港として重要な拠点でした。

六浦湊と朝夷奈切通


六浦湊と朝比奈切通

朝夷奈峠荷駄(楠山永雄コレクション 神奈川県金沢文庫保管)

仁治ニ年(1241)に工事が着手されたと記録がある朝夷奈切通は、鎌倉幕府が六浦と鎌倉を結ぶ幹線道路(六浦道)を開通させるために、山を切り開いてつくられた道路です。
金沢・六浦は風浪を防ぐ良港だったため、鎌倉幕府の外港として、物流の拠点となりました。
六浦や釜利谷で製塩が始まると、朝夷奈切通を通って、鎌倉に塩が運ばれました。

※地名としては古来から「朝比奈」が使われていますが、国指定史跡の正式名称は「朝夷奈切通」となっています。


浦賀道

「浦賀街道は平分村より三浦郡浦郷村に達す」と『新編武蔵風土記稿』が述べているように、この道は六浦から浦郷を経て、浦賀に向かう古い街道です。
(平分村とは現在の三艘・及び瀬が崎の大部分を指します。)
江戸幕府は、江戸湾に入る船舶を管理するため、元和2年(1616)下田に番所を設けましたが、風波の難が多いのでこれを廃し、享保5年(1720)浦賀奉行の設置とともに番所を移しました。
これと関連して江戸と浦賀を結ぶ陸路、浦賀道も重要度を増すこととなります。


金沢道(保土ヶ谷道)

東海道保土ヶ谷宿から、能見堂を経て金沢へ至る道を金沢道と呼びます。
江戸市民にとっての身近な行楽地、金沢八景へのコースとして、万治2年(1659)刊行の『鎌倉物語』は次のように述べています。
「江戸より見物せんと思う人は、先かたひらより金沢へ来て、鎌倉へ行ば見物の次第よきなり」
つまり、金沢八景を鎌倉・江の島とセットにして位置づけています。 景勝の地としてのピークは、文化・文政年間頃からであり、能見堂をはじめ、各寺院や旅亭が競って刊行した「八景案内図」「一望之図」など沢山の刊行物がその留時を今に伝えています。


白山道

白山道がいつ開かれ、いつ頃から白山道と呼ばれるようになったか明らかではありません。
しかし、この道は少なくとも鎌倉時代中期には開かれたと思われます。
金沢北条氏の祖、北条実泰が、六浦庄の領主になったのは天仁元年(1224)と推定され、彼が六浦殿あるいは釜利谷殿と称されたのは釜利谷あたりに居館をかまえていたからだと思われます。
当時の一部分と思われるものが現在、手子神社-東光寺-白山社-磨崖仏の前を走っています。
その先は住宅や道路の建設のために破壊、中断してしまいましたが、本来は鎌倉まで達していました。


野島道

町屋神社から金沢小学校を経て、野島に至る道が野島道です。野島は船路による三浦半島への交通路として、至便な道でした。
幕末に至り、相次ぐ異国船の襲来に対応して、三浦半島一帯に、諸藩の配置を命じました。これらに伴い、三浦半島への諸往還は、頻繁に利用されました。