- トップメニュー|検索

横浜市泉区役所のトップページへ


このページの本文 ここから

トップページ   >   いず魅力なび   >   歴史   >   いずみいまむかし   >   第2章 地区別小史   >   

向導寺と富士塚

緑園を中心に開発が進む岡津・新橋地区

5.向導寺(こうどうじ)と富士塚

向導寺
向導寺
富士講碑富士講碑
向導寺裏山の富士塚
向導寺裏山の富士塚

 県道瀬谷・柏尾線の岡津橋バス停から阿久和よりの細い道を入った所に、浄土宗徹底山本覚院(てっていざんほんかくいん)向導寺がある。

 元京都知恩院の末寺で、善蓮社知誉上人の開山といわれている。上人が遷化したのが天正十年(一五八二)四月ということから、この寺が創建されたのは、それ以前と思われる。

 本尊の阿弥陀如来(像高八一cm)は、関東大震災のおり破損し、後頭部、背板、右臂先、脚部前面などの部分を失ってはいるが、面部や体躯の全面材が良く残っており像容を窺(うかが)い知ることができる。この像は、栄区の証菩提寺の中尊像と同じく平安中期の仏師定朝の作風がみられる。

 寺の裏山に、富士塚があり、塚の上に四基の富士講碑が建つている。

 富士塚は、富士講の人々が、富士山の遥拝所として、また信仰の対象として富士山をかたどった人工の山である。

 富士山への信仰は江戸時代の初め、肥前国長崎の人長谷川角行が富士山を天地の中心、元の父母として神格化し国の平安、衆生の安心を求めることが基盤となっているといわれている。

〔正 面〕ゑぼし岩 食行身禄杓〔左側面〕天保十一子年八月六日〔台正面〕願主 戸塚宿 升屋忠右衛門 当村 齋藤忠兵衛 世話人 萩原八郎衛門 他十六名富士講碑文

 これは、富士塚の上に立っている富士講碑の碑文である。

 この中の富士信仰の行者「食行身禄(しょくぎょうみろく)」は、名を伊藤伊兵衛といい伊勢一志郡の出身で、江戸へ出て奉公し、後に薬種商や油商となって資産を築いた人である。

 伊兵衛は、十七歳で富士信仰に入り、毎年富士に登拝して信仰を深め、激しい修行をつんだ行者として講中の人々の信頼を得て、熱心に布教活動を行った。

 そのため、関東一円に富士信仰の集団である富士講が爆発的に成立したといわれている。

 富士講は、農村地域では広範囲の人々により組織され、それぞれ「一心・月参・赤卍・一誠・扶桑」などの名称をつけ、大先達、先達と呼ばれる講の信仰の指導者に率いられ、富士のお山へ登山して参拝したり、各地域に築かれた富士塚に参詣した。

 和泉町の安西實氏所蔵の明治三十一年(一九五六)の文書『富士登山講社講金領収帳』をみると、明治三十一年・三十二年・三十三年・三十四年・三十五年・三十九年の六回分の講金の領収帳と各年の登山者の名前が記載されている。この名簿に記載されている人をみると和泉町だけでなく、中田町、上飯田町、矢部町(戸塚区)、飯島町(栄区)とかなり広範囲にわたっていたと考えられる。

 富士塚は、岡津町だけでなく和泉町、汲沢町、深谷町、戸塚町、名瀬町、品濃町など各地にあったが、現在も原形を留めているのは、岡津町、汲沢町、深谷町だけで、ほかは富士講碑や地名として残っている。

 このことから、当時、泉区をはじめ周辺の区でも富士信仰が盛んに行われていたと考えられる。

 富士塚の前には大山前不動がある。以前は、参拝者で賑わったといわれている。

 大山詣での人々もここで足をとめお参りしたのであろう。

 

 前のページ ■■■■■ 次のページ   

PDF

いずみいまむかし〜泉区小史〜のPDFはこちら

冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



問合せ先
区政推進課広報相談係 1階101番
電話:045−800−2337
FAX:045−800−2506
※由来・歴史などの詳細については回答できかねますので、ご了承ください。