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中川村と役場跡

緑園を中心に開発が進む岡津・新橋地区

4.中川村と役場跡

明治6年頃の泉区の地図
明治22年の泉区の地図
震災後に建てられた村役場
震災後に建てられた村役場

 明治二十二年(一八八九)四月、市町村制の施行にともない阿久和村、岡津村、上矢部村、名瀬村、秋葉村の五か村が合併して中川村となった。村の中央を阿久和川が流れているところから、中川村と名付けられたといわれている。

 初代村長に角倉庄兵衛が就任し、とりあえず向導寺を仮の役場としたが、明治二十三年十一月、阿久和給田町(新橋町六六四番地)に役場を新築し移転した。

 町村の合併をめぐっては各地の紛争の例にもれず、中川村の設置でも、次のような経緯があったようである。

 戸塚区史によると、明治二十一年九月、鎌倉郡書記が秋葉村ほか四か村連合戸長役場に出張してきて、五か村の合併をうながした。

 それぞれの村では、協議をかさねて合併を決め、村名を中川村とすることに決定した。ところが、翌二十二年一月十一日、突然各村の総代が郡長によばれ、阿久和村の独立を聞かされた。阿久和村が合併を好まず独立を主張しているので、阿久和村の独立を内定したから、残る四か村で中川村の編成をすすめる目当てがあるかを問われた。四か村では、財政の点で難しいのは明白であるとし、先の決定通りにしてほしいと願いでたが、郡長は取り上げなかったので、県知事に願書を出した。

 当時、阿久和村は、戸数二〇三戸、人口一〇四五人(明治九年調査)の大きな村であり、養蚕が盛んで現金収入が多く、明治二十四年二月にはすでに資本金九千円の製糸工場があるなど、近隣の村々とはいささか様相が違っており独立心の旺盛な地域であったようである。

 この後、どのような経過をたどったかわからないが、明治二十二年四月に最初の協議どおり、五か村が合併して中川村となったということである。

 しかし、こうした合併の事情が遠因となり、小学校の統合も紛糾し、当時の新聞にしばしば報道された。

 当時、柏尾から岡津方面への道は、阿久和川沿いの大山道のみであったが、真っ直ぐな道を通そうという計画が持ち上がり、大正十年(一九二一)に中川村議会にはかられた。この道路が現在の瀬谷・柏尾線である。

 地域の人の話によると、県道は岡津の不動前、観音寺前、店村までと三期に分けて造成され、大正十五年六月七日、観音寺前までの開通式が行われた。店村まで開通したのは、昭和六年のことであった。

 昭和三年には、阿久和の相沢今朝一が経営する乗合バス(五人のり程度のもの)が運行した。

 当時は、バス停はなく、手を上げるとどこでもバスに乗れた。料金は、戸塚から上矢部まで五銭、岡津まで八銭であった。しかし、当時としてはバス代が高く、大抵の人は歩いて戸塚へ行ったようである。

 電灯がついたのは大正十一年頃で、長後から和泉を経て西谷(新橋)から岡津、上矢部へと電線が延び、電柱は地域の人々が建てて電線を引いたところから順々に電灯がついたということである。

 現在と違い、一家に電球一個というのが普通で、コードを長くして、あちこちに持ち歩く生活であった。

 大正十二年の関東大震災の時、給田町にあった中川村の役場が倒壊した。中丸鶴吉が村長の時であった。

 村では、役場が倒壊したのを機会に、石川兼次郎氏が提供した岡津の埋め立地に役場を新築して移転した。

 昭和十四年、鎌倉市域以外の鎌倉郡内の各村が横浜市に編入されたとき中川村も横浜市に編入され、戸塚区岡津町となり、昭和六十一年に泉区岡津町となった。

 

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冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



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