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領主黒田直綱と岡津村

緑園を中心に開発が進む岡津・新橋地区

14.領主黒田直綱(なおつな)と岡津村

岡津小学校
小金井家文書

 新訂寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜によると「元和(げんな)元年(一六一五)の役に従軍し、従五位信濃守に叙され、十一月十五日、伊豆国四方郡内(二千石)と二月十二日に相模国鎌倉郡・足柄下郡内(千石)を支配し三河国と合わせて四千石を知行した」とあるように、彦坂小刑部元正が支配していた幕府直轄領岡津村は、元和元年に旗本黒田信濃守直綱の領地となった。

 岡津村は、中央を阿久和川が流れ、周囲を山に囲まれた地域で、上飯田村、下飯田村、和泉村、中田村と比べて谷戸の多い所である。

 正保二年(一六四五)の検地によると、岡津村は田三十四町一反余、畑七十五町四反余で、村高は三百三十石五升である。しかし、元禄年間(一六八八〜一七〇四)のものと考えられる『相模国寄場組合村高家数明細帳』によると村高は、六百七十八石四斗八升と倍増している。

 正保年間から元禄年間の三十数年の間に、岡津村では盛んに新田開発が行われたのであろう。

 当時、農民には年貢だけでなく、村入用費や助郷などの負担があった。宿場では、伝馬役や人夫役を負担していたが、特に参勤交代等で通行の多かった東海道の宿場では、常備の馬や人夫では不足するので、それを補うために周辺の村にも負担させた。戸塚宿では、鎌倉郡三十六か村、高座郡二十一か村の村々が各村高に応じて人馬の負担をしている。これが助郷役である。享和三年(一八〇三)の『助郷村々高仕訳書上帳』によると、泉区内の各村の戸塚宿の助郷勤高は次の通りである。

村名 村高 助郷勤高
上飯田村 四〇〇石 二二五石
和泉村 四二二石四斗五升 三〇〇石
中田村 一一一石九斗三升五合 一〇〇石
岡津村 三三〇石五升 三三〇石
下飯田村は、戸塚宿の助郷は勤めていない。

 岡津村の農民は、どのくらい助郷役を負担していたか記録がないのでわからないが、田谷村の場合をみると次の通りである。

二月   十日
三月  十六日
四月  十二日
五月  十一日
六月   五日
七月  十一日
八月   六日
九月   十日
十月   八日
十一月   三日
十二月   三日
 一月   四日
 計  九十九日

 上の表は、天保十五年(一八四四)二月から翌年の一月までの田谷村の人々が御伝馬役で戸塚宿に出勤した月毎の日数である。助郷役の割当は、農民の田畑の持高に応じて行われ、農民にとっては重い負担であった。

 寛永元年(一六二四)黒田直綱は二十五歳で死去した。墓所は、江戸浅草の新光明寺である。

 岡津村は、代々黒田家が支配してきたが、明治元年に神奈川府(県)の管轄となった。

 

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冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



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