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原田由右衛門と岡津学校

緑園を中心に開発が進む岡津・新橋地区

12.原田由右衛門(よし(う)えもん)と岡津学校

西林寺
原田由右衛門の碑
西林寺
明治初年の教科書

 西林寺の境内に「朴翁居士之碑」という碑がある。門人たちが先生の恩に報いるために建立したものである。

 朴翁(原田由右衛門)は、元治元年(一八六四)、四十九歳の時に、岡津の自宅で寺子屋を営んでいたが、寺子屋が廃止になり、明治六年(一八七三)に近代学校としての小学校「第十中学区鎌倉郡二百九番小学岡津学舎」が開校した。そのとき、由右衛門は、岡津学舎の授業生(教師)に任命された。

〔辞令〕  
  原 田 由 右 衛 門
小学壱等授業生申付候事 
但第拾中学区弐拾九番岡津学舎懸
明 治 六 年 七 月         神 奈 川 県  印

 『横浜市教育史資料考』によると、原田由右衛門は、一年たらずで退職したため、その後を松田本教が西林寺を教場として、教鞭をとっていたということである。

 皇国地誌によると、岡津学校は、岡津村中央字菩提塚二二五七番地にあった地蔵堂を仮校舎として授業を行っていたようである。

 このことから考え西林寺から地蔵堂へと校舎を移したのであろう。

 由右衛門の辞令から岡津学校は、明治六年七月に開校したことがわかる。

 開校当時の小学校は、下等小学と上等小学に分かれており、それぞれ四か年で八級からなっていた。子どもたちは、まず下等小学八級に入学し、半年ごとに試験を受け合格すると七級・六級・五級へと上級へ進んだが、試験が難しく落第する子どもも多かったようである。

 当時、毎月一日を入学日と定めていたが、明治六年の富塚学舎(現戸塚小学校)の日誌によると、実際は毎日のように一〜二名の子どもたちが入学し、毎日のように一〜二名の子どもたちが退学している。岡津学校も同じようなものであったのではないかと思われる。

 明治十四年に神奈川県は、「小学校教則」を布達し、従来の下等小学(四年)・上等小学(四年)を改めて、初等小学(三年)・中等小学(三年)・高等小学(二年)とした。さらに明治十九年には尋常小学(四年)高等小学(四年)となり、尋常小学の就学が義務化された。

 明治二十二年、阿久和村、岡津村、上矢部村、名瀬村、秋葉村が合併して中川村となった時、初代村長角倉庄兵衛が村議会に「尋常小学校設置案」をはかったが、土地の事情により、中川村にあった四つの学校の統合ができず、「尋常阿久和小学校」、「尋常岡津小学校」「尋常高等共進小学校」の三校が設置された。

 

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冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



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