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領主安藤治右衛門と阿久和村

緑園を中心に開発が進む岡津・新橋地区

1.領主安藤治右衛門(じ(う)えもん)と阿久和村

 お墓山と安藤家の墓
お墓山と安藤家の墓

 昭和十四年、阿久和村が横浜市に編入された時、下阿久和は、戸塚区新橋町となり、昭和六十一年の分区のおりに泉区新橋町となった。

 三ツ境の釜取池を源流とする阿久和川が中央を流れる阿久和村は、南北に細長い村であった。

知行宛行状
           相 模 国 東 郡
一.三百八拾壱石四斗  安(阿)久和郷(鎌倉郡)
一.拾八石五斗  赤羽根之内(高座郡)
合四百石 右出置者也 仍如件

  大正十九年辛卯五月三日
           〔家康朱印脱〕
 安藤与十郎(正次)とのへ

 阿久和村は、天正十九年(一五九一)五月三日より安藤正次が支配した。知行宛行状(あてがいじょう)はそのときのものである。

 正次の父安藤定次は、慶長五年(一六〇〇)伏見城で討ち死にした。関が原の合戦のとき、正次は徳川秀忠に従い、信州上田へおもむき、また、大阪冬の陣のときは、空堀を埋める際の奉行を務め、その軍功が認められ、下総国香取郡(千百石)、武蔵国足立郡・多摩郡(五百石)を加増され二千石を支配した。

安藤家の系図
  定次 ― 正次 ― 正珍 ― 正程 ― 定房 ― 定穀 ― 正甫 ― 正武

 阿久和村は、慶安二年(一六四九)以来、七度検地を行っているが、天保期(一八三〇〜四四)には村高は九百三十六石で、天正期に比べて二倍以上に増えている。この間、新田の開発が盛んに行われたのであろう。年貢も田方四百八十俵、畑方八十五両と定められていたが、寛保二年(一七四二)には、田方七百俵、畑方三百俵と増加している。

 その後、山年貢永十二貫や雑税も加わり、十二年間に家数は、百六十軒から三割余の五十軒が減り、馬も百頭から三十頭に減少した。これは重税のためであったのかもしれない。

 しかし、領主は財政を無視して元文五年(一七四〇)には江戸の早稲田に竜善寺を建立し、寛保元年には、大凶作にもかかわらず米三百俵の増納を命じた。このため翌二年に領主に年貢の軽減を訴えたが取り上げてもらえなかったので領民は相談し、翌三年には、老中松平伊豆守に駕籠訴(かごそ)を行い、領民の惨状と救助を訴えた。

 当時、駕籠訴は厳しく禁止されており、訴えたものは獄門か重刑に処せられたが、喧嘩両成敗というべきか、阿久和の領民には追放、入牢手鎖三十日という軽い処罰で済み、領主安藤定穀も隠居をしたということである。

 

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冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



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