- トップメニュー|検索

横浜市泉区役所のトップページへ


このページの本文 ここから

トップページ   >   いず魅力なび   >   歴史   >   いずみいまむかし   >   第2章 地区別小史   >   

上飯田村と領主たち

鎌倉道沿いに開けた上飯田地区

7.上飯田村と領主たち

 飯島家文書
 飯島家文書
旧飯島家
 旧飯島家

 上飯田村は、鎌倉道(上の道)沿いに集落をなしている南北に細長い村である。

 豊臣秀吉が小田原北条を滅ぼした天正十八年(一五九〇)、徳川家康が関東に入国すると、上飯田村は徳川氏の支配地となったが、戸塚区史によると、慶長六年(一六〇一)には、旗本佐野正直が支配している。

 佐野正直は、慶安二年(一六四九)に、上飯田村の検地を行っている。この時の検地帳によると、当時上飯田村は、高座郡に属している。

 上飯田村の名主役を代々勤めてきた中屋敷の飯島家の所蔵文書「上飯田村名寄帳」によると宝永四年(一七〇七)には、今まで上飯田村を支配していた佐野に代わり、三人の旗本が支配している。

 三人の旗本と石高は次の通りである。

・上分 石 川 織 部 一五五石三斗三升三合
・中分 伊予田権左衛門 一三三石三斗三升三合
(後に、奥村に変わる)
・下分 木 村 左 門 一一一石三斗三合

 石川織部盛行は、宝永三年(一七〇六)、武蔵国多摩郡、相模国鎌倉郡と高座郡の三郡(五〇〇石)を支配している。享保十五年(一七三〇)に死去した。墓所は東京深川の浄心寺である。

 伊予田権左衛門正英は、宝永三年(一七〇六)四月二日、相模国鎌倉郡と高座郡(五〇〇石)を支配している。享保元年(一七一六)十月二十一日に死去した。墓所は東京青山の青原寺である。伊予田家は、家督を子矩武が継いだが、その子正成が一歳で死亡し、伊予田家は絶えたため、その後を奥村家が支配するようになった。

 奥村市正矩政は、享保十八年(一七三三)十一月十五日、相模国大住郡と鎌倉郡の二郡(六〇〇石)を支配している。安永五年(一七七六)四月二十八日に死去した。墓所は、東京品川の東海寺である。

 木村左門信継は、宝永四年(一七〇七)二月、武蔵国都筑郡、相模国鎌倉郡の二郡(五〇〇石)を支配している。正徳三年(一七一三)五月二十一日に死去した。墓所は東京下谷法養寺である。

 文久二年(一八六二)の「村高家数人別書上帳」によると、当時、上飯田村は、家数一一四軒、人数七四八人(男三五〇人、女三九八人)で、戸塚宿(助郷(すけごう)勤高二二五石)の定助郷と藤沢宿(助郷勤高十五石)の大助郷を勤めていた。

 明治元年(一八八六)王政復古により、今まで石川、奥村、木村の三旗本が支配してきた上飯田村は神奈川府(県)の管轄となった。

 上飯田村絵図(藤沢市文書館蔵)
 上飯田村絵図(藤沢市文書館蔵)

 

 前のページ ■■■■■ 次のページ   
冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



問合せ先
区政推進課広報相談係 1階101番
電話:045−800−2337
FAX:045−800−2506
※由来・歴史などの詳細については回答できかねますので、ご了承ください。