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飯田学校と教師たち

鎌倉道沿いに開けた上飯田地区

5.飯田学校と教師たち

 飯田学校卒業証書
 飯田学校卒業証書

 明治五年(一八七二)八月、文部省が学制を頒布(はんぷ)したのに伴い、神奈川県は、同六年二月、「神奈川県小学規則」を制定し、近代学校としての小学校を各地に設置した。

 学制によると、全国を八つの大学区に分けて一つの大学区を三十二の中学区に分け、一つの中学区を二百十の小学区に分け、それぞれの学区に大学、中学校、小学校を設置する計画であった。

 神奈川県は、東京をはじめ近隣の県とともに一大学区に属し、県内を四つの中学区に分けた。

・第七中学区   〔久良岐郡・橘樹郡〕
・第八中学区   〔多摩郡〕
・第九中学区   〔都筑郡・高座郡
・第十中学区   〔三浦郡・鎌倉郡〕
(第一中学区より第六中学区は、東京府)

 文部省年報によると、上飯田村には、明治六〜七年頃「第十中学区鎌倉郡第二百八番小学 飯田学舎」が設置された。

 故三橋スミ氏によると明治二十二年頃、飯田学校は飯田神社の神楽殿(かぐらでん)を使って授業が行われており、神楽殿の横には先生の住宅があったということであった。皇国地誌に「公立小学飯田学校と称す。東西二間、南北七間三尺面積十五坪、本村西の方にあり。仮に本興寺の堂宇を用いる生徒男三十七人、同女五人、教員一人」とあることから、飯田神社の神楽殿を使う前は、本興寺のお堂を使って授業を行っていたのであろう。

 開校当時の教師についてはわからないが、明治十年代には、中和田小学校の初代校長を勤めた山田専成(P67参照)や専成の弟で横須賀市長を勤めた長野正義の父である長野房吉、持田徳太郎が教鞭をとっていた。

 持田徳太郎は、安政四年(一八五七)四月七日、鎌倉郡上飯田村三八〇九番地(泉区上飯田町)に、持田藤蔵の三男として生まれた。

 筆子塚(保田三友)によると、徳太郎は、高座郡福田村(大和市福田)の自宅で寺子屋を開いた保田三友に学び、飯田学校の教員になった。

 長野房吉は、慶応三年(一八六七)四月二十四日、美濃国中島郡三柳村(岐阜県羽島市正木町)に、山田則秀の三男として生まれた。西郷隆盛と交友があったといわれる薩摩藩士長野良淳の娘(よし)と結婚して、長野姓となった。

 明治十八年五月十一日、試験により神奈川県小学初等科教員の免許を取得し、同年七月二十五日、飯田学校の教員となった。大正十五年二月十日、尋常高等川上小学校長を最後に退職し、昭和五年まで鎌倉郡戸塚町役場の収入役を勤めた。

 

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冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



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