- トップメニュー|検索

横浜市泉区役所のトップページへ


このページの本文 ここから

トップページ   >   いず魅力なび   >   歴史   >   いずみいまむかし   >   第2章 地区別小史   >   

宮崎勘右衛門と製糸場

鎌倉道沿いに開けた上飯田地区

16.宮崎勘右衛門(かん(う)えもん)と製糸場

 飯島家文書
 宮崎製糸の商標
旧飯島家
 宮崎製糸場の工場内部

 上飯田町一一二番地、神奈川日産自動車株式会社戸塚配車センターのある場所は、宮崎製糸場跡である。

 宮崎製糸場は、明治二十六年三月、宮崎勘右衛門が設立した。当初は、釜数・女工員数共に小規模の工場であった。

 勘右衛門は、宮崎源五右衛門の長男として生まれ、製糸場を設立したが、大正十二年二月二十一日、八十一歳で世を去り、長男の芳松が跡を継いだ。

 芳松は、工場規模の拡大をはかり、この近在では最も規模の大きかった持田製糸場に次ぐ製糸場に発展させていった。

 次の表は農商務省が行った全国製糸工場の調査表を基に宮崎製糸場の規模を年代順にみたものである。この表からもわかるように、宮崎製糸場は年を追って工場の規模の拡大や、生産高の増大をはかっていった。

宮崎製糸場の規模の変遷

調査年代  釜 数  女工員数  年開繭使用量
 明治三一年  四四  三二名  一〇一石
 明治三五年  四四  五四名  二一〇石
 明治四〇年  六八  七三名  一一〇〇石
 大正 元年  九八  一〇六名  一四三六石
 大正一二年  三二〇  三三〇名  九六四八〇貫

 しかし、大正十二年の関東大震災による被害や生糸相場等の変動により昭和初期には経営不振におちいり、高座郡渋谷村の「相模社」が経営するようになった。

 昭和十二年から十四年までは、工場内の乾燥場の空いている期間を利用して軍部に納める「乾燥味噌」の製造が行われた。

 製造したのは、東京品川の味噌問屋「金上」と平塚の「米善」と本庄の「山庄」の三社が共同で経営する「三協味噌会社」であった。

 乾燥味噌は、長方形の形をした固形味噌であり、製造した製品は、東京芝浦の三菱倉庫に納めていたが、軍の物資であったため製品の検査は巌しかったと当時、工場で働いていた宮崎政雄氏や内藤松高氏は話していた。

 宮崎芳松は昭和十六年三月十三日にこの世を去り、勘右衛門と同じ上飯田町一九五番地の墓地に葬られた。

 昭和十六年、製糸場が廃業すると、千葉県の中村庸一郎が経営する「桜ゴム」が跡地や建物を買収した。本社は東京の笹塚にあり、上飯田工場では、飛行機の油圧パイプの製造を行い、軍部に納めた。

 戦後は、平和産業として昭和二十四年頃までゴム製品の製造を行っていた。

 しかし、「桜ゴム」が廃業した後は、日産自動車株式会社が跡地を買収し、現在は配車センターとなっている。製糸場当時の面影を残すものは敷地以外に何もない。

 上飯田村絵図(藤沢市文書館蔵)
 宮崎勘右衛門の墓

 

 前のページ ■■■■■ 次のページ   
冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



問合せ先
区政推進課広報相談係 1階101番
電話:045−800−2337
FAX:045−800−2506
※由来・歴史などの詳細については回答できかねますので、ご了承ください。