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飯田神社と下飯田左馬神社

鎌倉道沿いに開けた上飯田地区

10.飯田神社と下飯田左馬(ば)神社

 飯田神社
 飯田神社
下飯田の左馬神社
 下飯田の左馬神社

 上飯田町の中村に、神奈川中央交通の「飯田神社前」というバス停がある。傍らの御影(みかげ)石の鳥居が、桜や檜の植えられた明るい林に映えている。この地域の鎮守さまである飯田神社であるが、新編相模風土記稿に「飯田明神社、鯖明神とも唱ふ。村の鎮守なり。稲荷、山王を合祀す。村持」とあるように、境川沿いに祀られているサバ神社の一社である。明治六年(一八七三)に上飯田村の村社(そんしゃ)に指定され、上飯田を代表する神社であった。

 祭神(さいじん)は左馬頭源義朝(さまのかみみなもとのよしとも)を主神に、宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)、大山咋神(おおやまぐいのかみ)の三柱をお祀りしている。

 社伝によると、延応(えんのう)元年(一二三九)に飯田三郎能信が再び飯田郷の地頭として就任した時に「奉幣(ほうべい)の儀」を行って報恩感謝のお参りをした。また小田原北条の時代に上飯田を治めた平山源太郎も、熱心に当社を崇敬したといわれている。

 また伝承では、この飯田神社はもとは上飯田村の一番北である柳明に祀られていたが、寛文十二年(一六七二)に現在の字新田二五一七番地に遷(うつ)されたといい伝えられている。

 寛政十二年(一八〇〇)二月に、京都北野天満宮の別当を勤めていた式部権大輔菅原長親(長量)が、江戸に向かう途中、戸塚宿で菊紋入りの「飯田大明神」と書かれた神額を、上飯田村の役人に手渡し、文化十三年(一八一六)の二月には、神祇管領(じんぎかんりょう)占部朝臣良長が遠路京都から飯田にきて、飯田大明神に幣帛を献上して祝詞(のりと)をあげてお参りしている。

 このようなことは、京都の公家や神祇管領に働きかけができ、迎えられる力のある人物がこの地域にいたからであろう。

 また、下飯田町の「なしの木学園」の近くの一三八九番地に、明治六年に下飯田村の村社に指定された左馬神社がある。この神社も以前は「鯖神社」と表記しており飯田神社と同じ境川沿いのサバ神社(堺川沿いのサバ神社一覧 参照)の一社で、左馬頭源義朝が祀られている。

 伝承によると飯田郷の地頭、飯田五郎家義が勧請(かんじょう)したといい、また小田原北条時代に下飯田を治めた川上藤兵衛がこの神社に武運長久を祈願したといわれている。

 また天正十八年(一五九〇)に下飯田の領主になった筧助兵衛為春は、地域の鎮守さまとして信仰し、氏子とともに社殿の修復をしたといわれている。

 境内林は明治以来、神奈川県の風致保安林に指定されており、けやき、犬つげ、藪ニッケイ等の実生で生え自然に繁茂した樹木が育っている。境内の庭はむかしの村社らしく広い。その広い庭を覆うように、横浜市の名木・古木に指定された銀杏が枝を伸ばしている。

 現在神社の入口は新道に面しているが、以前は飯田神社同様、鎌倉道(上の道)から入るようになっており、今でも入口の小川には石橋が架けられている。しかし昭和四十年代に地域の農道整備が行われた時、長い参道が分断されて今の新道が造られた。

 この境川流域には、はやり病に罹(かか)ると「七サバ参り」をすると治るという風習があった。

 七サバとは、どこの神社であるか定かでない。七は単なる吉数なのかもしれない。

 またこの流域には境を意識した行事や習慣が残っていたことなどから、柳田国男がその著『石神問答』の中で「相模の左馬明神又は鯖明神」と、特異な神として指摘している。境川沿いの両岸に祀られているサバの神社のことであるが、この上飯田、下飯田の二社がその指摘の神社であることは間違いない。

 

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冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



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