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長福寺と伝 泉小次郎館跡

泉区の中心として開発が進む和泉地区

9.長福寺(ちょうふくじ)と伝 泉小次郎館跡(いずみこじろうやかたあと)

 
長福寺
長福寺の板碑 
長福寺の板碑
馬洗い池 
馬洗い池

 いずみ中央駅東口前に、鎌倉円覚寺の末寺である臨済宗長福寺がある。天王山(てんのうざん)と号し、本尊は釈迦牟尼仏である。新編相模風土記稿によると、長福寺は、泉小次郎親衡(ちかひら)が道場として創建したもので、守護神として祀ったのが須賀神社で、館の鬼門除けとして勧請したのが「中和田老人憩いの家」の裏手にある神明社であるといわれている。

 長福寺の西方約二百m先に祀られている貞和(じょうわ)三年(一三四七)の不動尊は、泉小次郎親衡の守り本尊といわれている。不動尊の左右には「男瀧(おたき)」「女瀧(めたき)」があり、土地の人々はこの付近を「瀧の前」と呼んでいる。

 昭和六十一年秋の泉区誕生と同時に開園した泉中央公園には、「泉小次郎馬洗いの池」がある。池は一年中湧水が枯れたことがなく、昔から旱ばつが続くと土地の人々が集まり、池の水を汲み干して雨乞いの願いをかけてきた。

 この池の底に沈んでいた小さな島には貞和三年造立の五輪塔があり、池のほとりには数基の板碑もあった。これらの板碑は、公園開設の工事の時に発見された板碑とともに長福寺に保存されている。

 板碑の中には、建武四年(一三三七)二月、貞和二年、延文六年(一三六一)の銘が刻まれた南北朝時代のものもあり、貴重なものである。

 和泉川左岸の低い丘陵の先端、長福寺の一帯に、城址といわれている所がある。遺構は、南北四百m、東西二百mに及ぶもので、東側と南側には、約四〜五mの空堀と、基底が三m、高さが一mの土塁が残っている。

 東側土塁は堀の前面にあり、土塁前が道路になっていることから、二重堀があったと推定される。

 長福寺を創建した泉小次郎親衡の館跡と言い伝えられているが、二重堀や板碑などから、南北朝時代の城址ではないかともいわれている。

 泉小次郎が歴史に登場するのは、吾妻鏡である。

 建暦三年(一二一三)三月、泉小次郎が和田義盛の子義直、義重と甥の胤長などと語らって、二代将軍源頼家の遺児千寿丸を擁して、北条義時を倒そうとしたが計画が事前に発覚し、逃亡したことが吾妻鏡に見える。この事件に和田義盛の子や甥がかかわっていたことから、和田合戦へと発展し、北条氏により和田義盛一族は滅亡させられた。

 次は、鎌倉を逃亡したあとの泉小次郎について、各地に残る話を紹介したものである。

 埼玉県川越市に、泉小次郎親平(衡)の第二十五代を名乗る戸泉達也氏が在住している。戸泉家の墓所最明寺に「入道静海 文永二乙丑年五月十九日」と刻まれた宝篋印(ほうきょういん)塔と同文の下に初代泉小次郎親平と刻まれた墓碑がある。最近発見された「瑶光山最明寺縁起(写)」によると、泉小次郎親平は、北条義時を討つ計画が露顕すると、千寿丸を奉じて鎌倉を立退き、諸国を転々とした後に武蔵国三芳野の豊田源兵衛景快を頼っている。千寿丸は出家して「瑶光房道円」と名を改めて草庵を結び、この地に住んだという。また、泉小次郎もともに出家して、名を静海と改め、文永二年(一二六五)八十八才で没したという。これは「いずみ郷土を知る会」会員の方々が現地に行って調査したものを紹介したものである。

 なお、『和泉往来』によると、千寿丸は鎌倉郡野庭村の関城に隠遁し、百姓に養育されたと記されている。

 

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冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



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