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横根の富士塚と航空灯台

泉区の中心として開発が進む和泉地区

4.横根の富士塚と航空灯台

 昭和30年代の横根の富士塚
昭和30年代の横根の富士塚
戸塚航空灯台
戸塚航空灯台

 横根稲荷神社の東の高台にあった富士塚(やま)と航空灯台は共に有名であった。昭和初期までは、横根のいなり様と航空灯台は、地元の小学校はもちろん近村の小学校からも遠足で行ったものである。

 富士塚は、富士山を信仰する和泉を中心とした近郊の「富士浅間講」の人達が、鉄砲馬場(直線)を廻り馬場にするために余った土を、モッコで担ぎ築いた塚である。明治十二年一月(一八七九)に着工し、延ベ一千五人の人数を要したという。裾は八角形とし、三百坪(九九〇平米)の中心に長さ十間(十八m)の丸太を立て頂上から八角の角に縄を張り、それになじませて土留めの野芝をかませながら築いたという。

 山頂には石祠(せきし)を祀り、裾には、表に「富士御嶽神社」、裏に明治十三年と彫られた一八Ocm余りの自然板石の碑があった。碑の台石には、「角行・食行、両祖再興本帥・扶桑教会講社」、発願主として「講元」清水武左衛門「小社長」清水元右衛門「副小社長」安西作右衛門、安西金八、石井孫右衛門、入内島和吉、石井与想兵衛、清水又右衛門、石井庄五郎、石井五郎左衛門、安西市郎兵衛、安西小兵衛、石井九衛門、清水古久平、山村文左衛門、山村太兵衛と十六名の名が彫られていた。

 毎年四月三日には、度々の登山の記念スタンプで黒くなった白衣の行衣を着た先達(せんだつ)と講員により「ふじやま」の山開きが行われたそうである。

 現存する明治三十一年八月五日付の「富十登山講社講金領収帳」を見ると中田、和泉、飯田、岡津、谷部、飯島の人達百二十数名の名前が記されており、講金三十銭ずつ集めて、十数名の代表がお参りした記録がある。

 岡津の向導寺裏山には立派な富士塚が現存しているが、横根の「富士やま」は色々な事情から今はなく、跡地は平らにされモーテルになっている。

 横根稲荷のある場所は標高約六五m位の区内でも一、二の高台である。山頂から西を見れば遮るものはなく、富士山を中心に、右に大山、丹沢山、左に箱根連山が一望できる景観である。このような事情からか、昭和八年五月にここに航空灯台が設置された。これは、東京―大阪間に夜間航空路が聞かれたため当時の逓信省が山頂を買収し造ったもので、「戸塚灯台」と呼ばれ「戸塚音頭」にも歌い込まれている。

 三、恋のやみ路も雲間の闇も たよる心の二筋道や
    様のプロペラ間近に聞いて、戸塚灯台空の路
    恋のハンドルしっかりと 相州戸塚の空あかり

 この航空灯台も、太平洋戦争が勃発すると、敵機の目標になるということで、昭和十九年頃取り壊された。

 今は姿を消した「富士塚」は神奈中バス停留所の名称で、わずかに名残りを止めている。

横根から見た富士山
横根から見た富士山

 

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冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



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