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密蔵院と学童疎開

泉区の中心として開発が進む和泉地区

17.密蔵院(みつぞういん)と学童疎開

密蔵院 
密蔵院

 和泉町七二七番地に、古義真言宗の密蔵院がある。本尊は天台真言の碩学(せきがく)の僧願行(がんぎょう)の作と伝えられる像高六七cmの不動明王である。開山は祐海法印である。祐海法印が亡くなったのが天文十四年(一五四五)十二月十日であるところから、寺の開創はそれ以前と考えられる。

 境内には、貞和三年(一三四七)銘の板碑一基と門前に文政四年(一八二一)三月吉日建立の「南無大師遍照金剛 木食観正」と刻まれた木食観正碑がある。

 寺の前には水田が開け、周囲を山に囲まれた静かなたたずまいのこの寺にも、本土空襲が激しくなってきた昭和十九年から二十年にかけて、子供たちが疎開してきた。

 昭和十九年、神奈川県では横浜市、川崎市、横須賀市の三市が、「三市学童集団疎開実施要綱」により、学童疎開を行った。

 集団疎開は、国民学校初等科三年から六年までの縁故疎開の難しい児童を対象に行われた。旧戸塚区内(戸塚区・栄区・泉区・瀬谷区)では、十九年八月二十四目、戸塚国民学校初等科三年から六年の児童が泉区内に疎開してきた。

疎開先は、次のようであった。

戸塚国民学校児童疎開先
・東泉寺(初等科三年) ・・・・・・・・・・・・〔下飯田町〕
・密蔵院(初等科四年) ・・・・・・・・・・・・〔和泉町〕
・中田寺(初等科五年) ・・・・・・・・・・・・〔中田町〕
・本興寺(初等科六年) ・・・・・・・・・・・・〔上飯田町〕

 八月二十五日の戸塚国民学校中和田疎開分団第二班の日誌をみると、十二時三十分に戸塚国民学校の講堂で壮行会が行われ、十五時三十分に中和田国民学校で歓迎式が行われた後、それぞれの疎開先へ別れて出発した。

 密蔵院に疎開する四年生は、十七時三十分に寺に着き地域の有志の方々の暖かい歓迎を受けた。

 児童が疎開していたときの密蔵院の日誌には、疎開児四十名を受け入れるために、地域の矢沢吉之丞、安西弥吉、清水弥三郎、当寺住職田中宥海、大工の藤井清太郎(中田町)、田中平吉各氏により地鎖祭が行われ、境内に井戸や炊事場、食堂、浴室、便所が新築されたと記されている。

 「わたしたちの戸塚]によると、疎開先の生活は次のようであった。

・午前六時 起床 神社まで駆け足、境内でラジオ体操、祝詞に合わせてお祈り 朝食
・午前十時 寺の本堂か近くの小学校で学習 昼食
・午  後 寺の本堂、庭の清掃、野菜作り、山菜採り、薪集め、近くの農家への手伝い

 しかし、三度の食事も十分でなく、食事といっても米はわずかで、大部分は大豆が入ったものであったり、ご飯の代わりに「さつま芋」が出たり、育ち盛りの子供たちは、お腹をすかした生活だったようである。家族と離れての生活での一番の楽しみは、家族の方との面会だったようである。

 

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冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



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