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宝心寺と殿墓

泉区の中心として開発が進む和泉地区

14.宝心寺(ほうしんじ)と殿墓(とのばか)

宝心寺 
宝心寺
能見松平家歴代の墓 
能見松平家歴代の墓

 和泉親水広場近くの宝心寺は、和泉山(わせんざん)松雲院と号し本尊は阿弥陀仏で、元京都知恩院の末寺である。

 また、和泉町五二一九番地の正法寺は、宝心寺の境外仏堂として正観音菩薩を安置し、大悲山慈眼院と号し宝心寺の住職が兼務している。本尊の十一面観音は鎌倉郡観音三十三か所札所の第二十五番になっている。

 宝心寺のおこりは、泉小次郎が菩提寺として建立した泉竜寺という禅寺であった。小次郎の末孫が絶え堂も大破してしまったのを領主の松平勝左衛門昌吉が慶安四年(一六五二)浄土宗として建立し、昌吉の法名「松雲院殿業蓮社定誉法心庵燈居士」から松雲院宝心寺となった。現在の堂宇は、昭和四十四年に再建されたものである。境内には昭和四十九年に横浜市の名木古木に指定された数本の大木が立ち並んでいる。

 正面の参道入口には、高さ四mを越す車塔が建っている。明治四年(一八七一)約六十名の寄付者により建立されたもので、塔には次の歌が刻まれている。

  昨日みし人はと問えば、今日はなし、
    明日は我が身も人に問われん
  末遠く思ううちにぞ、近くなる、
    身のたねまきよ日の暮れぬ間に

 石段を上って行くと左側にお堂がある。中には和泉廻化地蔵尊と、岩舟地蔵尊が祀られている。

 本堂裏の墓地内に「殿墓」と呼ばれる徳川時代の和泉村領主であった松平家の墓所がある。

 「松平諸家譜」や同寺の過去帳によれば、徳川家康と祖を同じくする、三河国の能見松平家の初代次郎左衛門光親から、六代目にあたる松平勝左衛門昌吉は、徳川家光に仕え、寛永二年(一六二五)和泉村外六百三十石余の采地を得、後に大住郡に五百石、下総国に五百石の計一千六百三十石を知行した。

 昌吉は、その後も加増を受け、合計二千石余を領したという。

 昌吉が宝心寺を開基したおり、それまで松平家代々の墓地であった能見の観音寺から、父の五代目庄右衛門昌利の墓を宝心寺に移し墓所とした。この墓地は、能見松平家の五代目から十六代目までの墓碑と宝篋印塔十数基が立並んで「宝心寺の殿墓」と呼ばれている。

 明治以降は、子孫が東京青山墓地を墓所とした。

 

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冊子いずみいまむかしの写真  平成8年11月3日発行
 泉区制十周年記念出版
  いずみ いまむかし
    −泉区小史−  より



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